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初めてこの日記を読む人へ- うえの
2022/07/31 (Sun) 13:33:34
・上から順に新しいので昔のから読んでくと時系列的にいい感じになります。

・上から順だと重い話とかまじめな話ばっかですが、本来そんなんではありませんでした(笑)遡ってみると僕が主将だった時の全稽古、全試合の日記が残ってます。なつい。

・”返信”のとこに何か書くと時系列が豪快にずれちゃうのでやめてくださいな。
Re: 初めてこの日記を読む人へ - うえの
2022/07/31 (Sun) 13:39:45
あとなんか
〇年春 みたいなのが後ろについてる奴はコロナ禍で暇を極めて学生生活を振り返って書いたやつなので、ひとつのシリーズ的な感じで読んでもらえると話が繋がるかもです。
主将日記- うえの
2021/03/23 (Tue) 20:13:03
僕は自室のベランダから星を眺めていた。東京都とはいえど田舎に片足を突っ込んでいる我が家からは、比較的星が良く見える。
中島みゆきという歌手の『地上の星』という歌。諸説あるが、あの歌は地上で過ごす名も無い人々を地上で光る星になぞらえて歌ったものらしい。それを踏まえると「地上にある星を誰も覚えていない」「みんなどこへ行った」といった歌詞が今までと違って聞こえてくるような気がする。
地上の星の一つである僕は、まもなく大学を卒業する。自分の中では、医療系剣道部界隈の中で少々認知されるような存在になれたのではないかと思っているが、それは現時点での話である。数年もすれば僕が知らない、僕を知らない人が医療系剣道部を支えていくことになり、ものの数年で母校の剣道部からも認知されなくなってしまうのだろう。卒後1,2年もすれば、僕のことは話題にも上がらなくなるだろう。僕がいなくなったとしても、世界はちゃんと回るようになっている。少し寂しい気もするが、それが普通なのだ。
「なぁ竜治、なんの為に俺たちって生きてるんだろう」友人にそう言われたことがある。
少なくとも、“名を残すため”ではないような気がする。たとえば、僕たちは日頃ボールペンをよく使うが、ボールペンを開発した人の名前はほとんどの人が知らない。功績を上げて名前を認知してもらうというのは恐ろしく難しいことなのである。極論、周囲の為に生きるというのは限界があると思っている。
友人からの問に僕は、「楽しむため」と答えた。突き詰めると、自己満足である。だが自己が多様であれば自己が満足する内容もまた多様になるので、中には人の為に生きることで自己が満足するが故、結果として周囲の為に生きているという人もいるだろう。いろいろな人生があるように見えて、それらはつまるところ自己が満足することを追求している形なのではないか、と24年しか生きていない僕は個人的に思っている。
僕のこの6年間を振り返ると、本当に満足である。数年後、医療系剣道界隈のみんなや母校の剣道部員から認知されなくとも、とても満足な6年間を送ることができた。
僕だけでなく、僕の親しかった同期や後輩も、同様にどんどん医療系剣道界隈を離れていくことになる。だからこそ、僕は忘れずにみんなのことを認知し続けていようと思う。僕が見てきた地上の星の輝きを、いつまでも克明に脳裏に焼き付けておきたい。かつて剣道という形で輝いていた地上の星たちは、僕の中で永遠に輝く存在のままにしておきたいと思う。


今回でおよそ3年半に亘って綴ってきた主将日記は最終回となる。
幕を下ろす前にどうしても触れておきたいことがある。
僕の、大学6年生の部活動についてである。

298勝216敗107分。
僕の大学剣道の最終成績である。300勝にぎりぎり届かないのが実に僕らしい。
もし、である。もしも2020年の部活や大会が通常通り行われていれば、300勝到達は容易だっただろう。300勝は僕の目標でもあった。
団体戦でベスト8になるのも、僕の夢だった。
最後の公式戦記録は2本負けで、チームとしては予選敗退だった。
僕にリベンジする機会は、ついに訪れなかった。
記録上、6年生の僕の成績は空白となった。
あの天井が高い試合場で、あの歓声と拍手を受けながら、あの緊張感を胸に試合をする。それをすることは、僕にはもうできなくなったのである。

だが、「悔いが残っているのか」と聞かれれば、僕は自信を持って「全く残っていない」と答えることができる。
大会が中止になり、部活の活動再開が危ぶまれるたびに本当に多くの人から連絡を貰った。
「大丈夫?」「上野病んでないー?」「残念でしたね」
有難い限りである。だが、まるで病んでいない。
もしもコロナがない世界で大学6年生を過ごすことができる権利が提示されたとしても、僕はこの世界を選ぶだろう。そう思うことができた理由が、大きく分けて2つある。

1つ目としては、僕にとって全ての試合が引退試合だった為、“最後の試合がなくなった”という認識がないからである。
僕が人生のテーマにしている言葉は「武士道は死ぬことと見たり」である。誤解されがちだが、これは明日死んでも良いように毎日を必死で生きよう、という意味である。
誰かと会う時、これがこの人と話す最後かもしれない、と思うと相手の一言一言が大きな意味を持って聞こえるし、少しでも楽しい時間にしたいと思う。
どこかに行く時、これがこの場所に来る最後かもしれない、と思うとその光景を目に焼き付けようとする。僕が人と会う時やどこかに行く時に大量に写真を撮るのも、それが最後かもしれないと思っているからだ。
親とも、前後の会話がどうであれ「行ってきます」と「おやすみなさい」は必ず笑顔で明るく言うようにしている。
そして、剣道でも同様である。特に高校時代から大学時代までずっとドクターストップをかけられながら剣道をしていた自分は、素振り一本、面打ち一本の度に、次の瞬間には竹刀が握れなくなっているかもしれないと思いながら打つようにしていた。外科の実習で術帽を被る予定があるため整髪をせずに登校したような日も、道場に行く前にはこれから面を付けるにもかかわらずワックスを付けて整髪して自分なりの正装で剣道をするようにしていた。自分にとっての地稽古、試合稽古、大会での試合は常に僕の中での引退試合だった。
結果として、事実上の引退試合が通常より1年早まってしまったが、僕にとっては1年前に覚悟を決めた試合を終えていたのでダメージはほぼなかったのである。
だが、それだけでは前述したような、“もしもコロナがない世界で大学6年生を過ごすことができる権利が提示されたとしても、僕はこの世界を選ぶ”理由にはならない。
理由として挙げたいのは2つ目が主である。


僕は林田、堀、大井と1日中話すことが春から秋にかけてしばしばあった。試験が忙しくなってからは機会がなくなってしまったが、学年の離れた彼らとはとても公共の場に書けないような話をして大いに盛り上がった。そんな話をしていた時、林田がポツリと「上野先輩に試合に出てほしいですね」と言った。

小鳥とは2人でも、数人と一緒でも話す機会が多かった。彼は度々「上野先輩ともう試合に出れないのかと思うと寂しい」「上野先輩卒業しないで」「今までで一番いなくなるのが寂しい先輩」と言った。

僕にとっての引退試合にもなる医療系大会の中止を聞かされたのは、部活での報告ではなく他校の人からだった。その人は「上野さんが試合をしているところをもう一回、見たかった」と涙をボタボタと流しながら言った。
(念の為だが、いずれも遠隔での会話である)

「試合出られるといいですね」
「大会出来るといいですね」
という声はたくさんもらった。もちろん、そう言ってもらえるだけでも十分有難いことだし感謝している。だが、それらは「(上野さんが)試合出られるといいですね」「(上野さんが)大会出来るといいですね」という、主語が僕の言葉である。対して上述した言葉は、
「(僕は)上野先輩に試合に出てほしいですね」
「(僕は)上野先輩ともう試合に出れないのかと思うと寂しい」
「(私は)上野さんが試合をしているところをもう一回、見たかった」
主語が「僕は」「私は」である。
後輩である彼らには、まだ大会に出るチャンスがある。それでも僕が試合に出られないことを、まるで自分のことのように悲しんでくれた。自分自身に関わる問題として、捉えてくれた。
そういう風に考えてくれる後輩を持てたこと。そして、そんな後輩にそこまで言ってもらえたこと。
僕には、それで充分である。
こんなに温かい言葉を貰うのは、300勝を達成することや大会で結果を残すことよりもずっと難しく、ずっと嬉しい。彼らがいてくれたおかげで、僕の最後の1年は最高だった。あくまで記録上は空白の1年だが、最上級生として6年間の大学剣道をまとめるのにふさわしい1年になった。これこそが、上野竜治の大学剣道の集大成であると胸を張って言うことができる。
この先どんなに辛いことがあっても、これらの言葉を貰えるような関係を後輩と築けたという事実が僕の背中を押してくれると思う。
6年生期間の部活動は僕の宝物になるだろう。


さて、主将就任時より書き連ねてきた日記も、いよいよ結ぶ時が来た。
振り返ればこの6年間、僕は日大医剣道部で剣道ができて幸せだった。先輩後輩同期、すべての人に恵まれた。剣道部の強さも人数も僕にとってはちょうど良かった。何より、部の変遷を見届けることができたのは大きい。入部した際は初心者や女子を団体戦に出さなければならなかったチームが、今やレギュラー争いを必要とするチームになった。一桁だった部員は20人を超え、休部していた看学剣道部は今や大会で優秀な成績を残す部になった。部活の雰囲気も全く違うものになり、日大医剣道部は生まれ変わったと言って良いだろう。その過程を見れた自分は非常に恵まれていると思う。どの年のことを考えても、文句なしに楽しかった。本当に、日大医でよかったと思う。
話が完全に逸れてしまった。日記のことに話を戻そう。
いよいよ、日記が終焉を迎えようとしている。まさかここまで続くとは夢にも思わなかった。日記を読んだ上での感想を送ってくれた人や、日記を2周読んでくれた人、途中から存在を知って遡ってまで読んでくれた人まで、本当にいろんな人に支えられてこの日記は今日まで書くことができた。何かを公開する上で、それに対するリアクションを貰えるということは何よりも支えになった。
最も感謝すべきは、日常を公開されることを許してくれた日大医剣道部剣道部員である。
みんなありがとう。
日記を通じて連絡を取るようになった人、知り合った人、仲良くなった人、本当に様々だった。この日記は僕の学生生活そのものである。

そんな日記を締めるにふさわしい言葉を、僕は上手く見つけることができるだろうか。

それに関しては、書き始めた時から実は決めていた。

ここまで何億という文字を打ち込んできて、いろいろな表現をしてきたが、結局のところ言葉は誰が言っているかによるところが大きい。同じ言葉、単純な言葉、使い古された言葉であっても、誰が言うかによって言われた側の中で言葉の意味は大きく変わる。むしろ、難しくない表現の方が、書き手の思っている複雑な心情をそのまま伝えることができるかもしれない。
だから僕はあえて簡単な言葉で日記を締めたいと思う。



皆さんのおかげで、僕の6年間は幸せでした。今まで、本当にありがとうございました。
過去- うえの
2021/03/22 (Mon) 20:49:52
放課後の廊下で僕は独りだった。
僕の小学校では、遠足やイベントなどが行われた数日後、カメラマンによって撮影されたその時の写真が廊下に貼り出されることになっていた。その枚数は時に数千枚にも及び、生徒たちは自分が欲しいと思った写真の番号を記入し、購入する。
僕も自分の写っている写真はないかと紙と鉛筆を手に写真を確認していた。
そして、見つけたのである。
―――顔の部分が針のようなものでぐしゃぐしゃに引っ掻かれた僕の写真を。
更に見てみると、廊下に貼り出された写真の中の僕は全て顔の部分が潰されていた。無論、1枚や2枚ではない。
こういうこともしてくるのか。顔の部分に引かれた白く細い線に青白い蛍光灯の光が反射して僕に刺さる。僕は写真に手を伸ばし、そっと撫でた。………お前も可哀想に。
そうして写真を眺めていると、廊下の奥から騒ぎ声がしてきた。僕は声の元へと歩みを進める。そして、「おい」と声をかけるのと、その相手が定規で写真の中の僕にバツ印をつけたのはほぼ同時だった。
「悪い悪い、手が滑った」
「いい加減にしろよ!」
相手はニタニタと笑みを浮かべ、僕の反応を面白がっているようだった。それは分かっている。分かってはいるものの、好き放題やられて黙っていることだけは嫌だった。
「謝ってんじゃん」
「謝ればいいわけじゃないだろ!」
相手は複数名。多勢に無勢なのはいつものことだ。昼休み中10人近くに囲まれたことも経験済みである。
甲高い怒鳴り声を上げつつも、そのあとどうするかなど何も考えていない。せいぜい抵抗してみるくらいしか、僕にはできなかった。
まぁ、どうせこの後どうなるのかなんて分かっていた。
その時である。
「どうしたの?」
廊下に面していた部屋の扉が開き、中から先生が出てきた。助かった、と思う反面結局のところ僕は独りじゃ何もできないんだと自分の無力さを嘆かわしく思った。
事情を話し、相手が僕に謝罪し、その日は帰ることになった。
そして次の日何があったかは、大方の予想の通りである。


小学生も中盤に差し掛かろうかという時、僕はいじめに遭っていた。
この頃の僕は自分が正しいと思ったことをとにかく貫く傾向にあった。テスト中にカンニングをする人や、先生をからかって教室に入れないようにする人が許せず、摘発したり注意したりを繰り返していた。空気を読むことよりも、自分の気持ちを重視していたのである。
それで良いと思っていた。正しいと思うことをして何が悪いのか。なんでみんな見て見ぬふりをして行動に移さないんだ。そう信じてやまなかった。だが、組織というものに意識が向き始める小学校において、それは致命的だった。
登校して下駄箱を開けば上履きには画鋲が刺さっていた。
学校でその日あったことを書いていたノートには、いつしかその日受けた暴力や浴びせられた罵詈雑言しか書くことがなくなり、その量は1日で見開き1ページ分になるほどだった。
体育の授業では輪ゴム、砂、小石、縄跳び、いろんなものが飛んできた。
グループや班を組むときは「好きな人と組んでください」と言われれば僕は必ず余り、「くじで決めます」と言われれば配属先の班員から白い目線を向けられた。
教室に味方はいないように思えたある時、急に仲良くしてくれるようになった人がいたのだが、実はその人が裏でいじめの指揮をしていたなんてこともあった。
僕だけでなく、大好きな親までも周囲から散々馬鹿にされた。
成績も悪く、算数で15点をとったり理科で偏差値28を記録してはまた囃された。
勉強も人間関係も、良いことがなくて毎日が辛かった。
時間を割いて対応してくれた先生もいたが、それでも状況は好転せず、道徳の授業で黒板に大きく書かれた「上野くん」の文字を背に、いじめについて意見を出し合うことになった教室をぼんやりと眺めながら、僕が「幸せだ」と言えるようになることは恐らく一生ないんだろうなと思った。
それでも学校を休むのは負けたような気がして、意地でも休まなかった。それ故に、心と体の傷は日を重ねるごとに増えていった。
人は自分より恵まれた存在や、自分より優れた存在を目の当たりにしたとき、自分という人間を保つために何とかして自分より下の存在を探す。どこかに叩ける存在はないか、血眼になって探す。そしてそれを見つけた時、人は匿名や群集心理を盾にして叩けるものを叩く。そうやって得た心の平穏によって、誰かの心の平穏が侵されたとしても、それを考え出すとせっかく得た平穏な心に波風が立つから考えない。自分は何も悪くなく、叩かれる人間が悪い。そうしてまた、他に叩けるものはないかを探す。僕をいじめてくるのは、みんなそういう人間なんだと思っていた。今となっては、そこまで悪く考えるべきではないということくらいわかる。僕にも非があったことも今ならわかる。もし当時の同級生たちと再会する機会があって向こうが門を開いてくれるなら、僕は彼らと新たな関係性を築きたいとさえ思っている。だが当時の僕にそんなことを考える余裕などなかった。
家に一人でいた時、日々の辛さが死への恐怖と親への申し訳なさを上回ってしまったことがあった。だがその際は、紐を支えていたフックが僕の体重に耐えきれず折れてくれたおかげで大事に至らなかった。あの安いフック一本が、僕の命を繋ぎとめてくれたのである。
親と野球と、僅かな友人だけが僕の支えだった。

小学校を卒業する際、このままでは僕の人生が終わると思い、自分を変えようと決めた。
とにかく人に好かれる人間になろうと思った。なるべく人が喜ぶことをしよう。どんどんみんなと話そう。とにかく積極的に行動しよう。
そう心掛けた。
今思えば、碌にコミュニケーションを取らなかった僕がいきなり今までと180度違うことをしたので、中学校入学後は的外れな行動が目立ち周囲には迷惑をかけたこともあったと思う。今とは比にならない変な奴だったと思う。だが幸いなことに、先生も同級生も部活の先輩後輩も、みんな僕を受け入れてくれた。むしろ好意的に接してくれる人が多く、初めて一日一日が楽しいと思えるような日々を送ることができた。特に僕が中学1年生の時、担任になってくれた先生が真面目で熱血な先生で、その先生と会えたことは僕にとって非常に大きかった。その先生のそのクラスから、僕の日々が徐々に変わり始めた。
野球部では、同期の中で最も実力的に劣っていた上、当時から怪我をしがちで周りに迷惑をかけっぱなしだったが邪険にされたことは全くなかった。
学業では、初めてテスト勉強というものをして比較的良い成績を取った時、親に喜ばれたことが本当に嬉しくて、もっと喜んでほしい一心で勉強を重ねるようになった。
学生生活が充実してくるようになると、自分に自信を持つことができるようになった。楽しい時間を共有できる友人ができる度に、僕はここに居ていいんだと感じるようになった。
今まで僕は幾度と人生の分岐点に立たされ、あらゆる選択をし続けてきたが、中学校を日大二中に選んだことは僕の中で最高の選択だったと思っている。二中のおかげで僕の人生は変わった。

中高一貫でそのまま進学した高校でも多くの友人に囲まれ、毎日が楽しくて仕方がなかった。
友人の誘いで剣道と出会い、剣道部という最高のコミュニティと出会い、親友と呼び合うような仲の同級生と出会った。2年生では初心者始めながら剣道部の副主将を務めた。他の部員から見れば圧倒的に剣道歴が浅く、自分たちより実力のない上級生が副主将になったというのに、それを喜んでくれた後輩さえいた。
生徒会長も務め、成績も学年1位を1度取ることができた。それを喜んでくれた人もいた。
いつも誰かと学校に行き、誰かと遊び、誰かと帰った。
そして部活を引退し、医学部に受験して合格した。
卒業式の夜、後輩からもらった色紙を2時間以上かけて読んだ。

大学でも剣道と野球を続けた。学校の成績も部活の成績もそこそこのラインに落ち着いたが、6年間いつも友人に囲まれた大学生活だった。

何を伝えたくて僕のこれまでを綴ったかと言うと、である。
“「過去は変えられる」っていう言葉が気に入っている。もちろん起きた事実は変わらないが、その意味合いはいくらでも変えられる。”
これは、他校の剣道部の友人がSNSに載せた言葉である。
小学校の時、僕はどん底にいた。だが、あの経験があったからこそ今があるのも事実である。
なるべく人が喜ぶことをしよう。どんどんみんなと話そう。とにかく積極的に行動しよう。
これらは全ていじめに遭った経験から得た教訓である。
何をしたら人は喜び、笑ってくれるかを考えるうちに、喜んでもらえたり、笑ってもらえたりすることが何よりも嬉しくなった。
振り返れば、いじめに遭った経験が中学、高校、大学、そして今の僕に繋がっている。
あの頃がなければ今の上野竜治は存在していない。そう考えると、辛い思い出ではあっても決して悪い思い出ではなくなる。
だから僕も、過去を変えることはできると思っている。

恐らく、これから「なんであんなことしちゃったんだろう」や「あんなこと言わなければよかった」を山ほど経験することになると思う。
そんな時、僕はまた過去の変え方を考えることになるだろう。全ての過去が今の自分に直結している以上、今の自分が変われば過去もまた変わる。こうして文字を起こしている瞬間も1秒後には過去になっている。
“過去を変える”をかみ砕いて表現するならば、“過去の認識を変えることで未来の自分を変える”ということである。
これから先、僕が何を経験し、その過去をどう変えていくのかは分からない。
だが、今はどんな過去でも前向きに変えていけるような気がしている。
少なくとも今この瞬間、独りではなくなった僕は幸せである。
納会の卒業生挨拶の原稿- うえの
2021/03/21 (Sun) 18:57:26
2020年、あらゆるイベントが中止となってしまった中で僕が最も残念だったのは剣道部の納会である。
納会では毎年、卒業生が先生や部員に向けてメッセージを送ることになっていた。遡れば、涙ながらに感謝を述べた先輩、医師になる上での熱い思いを投げかけた先輩、後輩一人一人にメッセージを残した先輩、「もっと武功を上げたかった」と悔しそうに語っていた先輩、三者三様の熱弁を僕は見てきた。
卒業生が最も輝く場所。僕は納会をそう捉えていた。
僕が卒業する時は何を話そうか。毎年、納会があった日の夜は風呂に浸かりながら一人でそんなことを考えていた。そして去年田中先輩のメッセージを聞いた直後、僕は何を話すべきか決めた。最後なんだから、何も恥じることなく一番言いたいことを言えば良い。早く話す場面が訪れないだろうか。そんなことを考えていたのだが、遂にその場面は訪れなかった。
どんな大会の中止よりも、東医体よりも納会の中止は哀しかった。
だが、僕には日記がある。だからここに書いてしまおうと思う。
せっかくだから少し(結構)付け加えて(かなり)長めに。
僕が話そうと思っていたことを。



高いところから失礼いたします。6年生の上野です。
まずは先生方、本日はお忙しい中お越しいただきましてありがとうございます。
どうぞ、皆さん足をお崩しになってください。
この場に卒業生として立つ時、何を話そうかと毎年考えていました。最後は部員一人一人に言葉を贈ろうかとも思いましたが、昨年の納会で田中先輩がそれをされた時、あのスピーチを超えるものを僕はできないだろうと思ったので、僕は逆にある1人に対してメッセージを贈ろうと思います。6年間で最も迷惑をかけられてきた、彼の話をします。

彼は入学当初、剣道部に全く興味を示しませんでした。「俺は柔道部に99%入る」と言ったかと思えば「俺弓道部に99%入るわ」と言って、結局勧誘にも来ず仮入部もせず突然「じゃあ剣道部に入るわ」と言って入部してきました。とても無礼な人間です。彼は今、0.01%の確率で剣道部に居ます。それを思えば90%受かる国家試験なんて怖くも何ともありません。皆さんも困ったら、身近に0.01%の確率を破った人間がいたことを思い出してみてください。
恐らく、何の役にも立ちません。

彼は大学から剣道を始め、3年生の時には僕や甲田と一緒に幹部を務めました。彼とは喧嘩もしましたが、日大医剣道部を一緒に支えることができたと思います。彼は主将としての僕をいつも信頼し、一番傍で助けてくれました。有難かったです。彼の剣道、剣道部への熱意は僕の構想する剣道部には不可欠でしたし、彼をなくして僕は主将としてうまくチームをまとめることができなかっただろうと思います。去年の納会で、田中先輩は「もしもう一回主将をやるなら八木と幹部をしたい」と言いました。今はその言葉が本当の意味で理解できます。僕ももしもう一回主将をやるなら、その時は迷わず八木さんと幹部がしたいです。はい。

彼とは今まで本当に多くの試合をしてきました。戦績は6年間で僕が43勝、彼が5勝、引き分けが9回です。僕が貯金38です。ごちそうさまです。それでも5敗したのも事実です。初めて負けたのは忘れもしません、2年生の10月でした。もう時効だと信じて打ち明けますが、当時僕は剣道部を辞めようと思っていました。剣道部じゃなくても剣道は続けられると思い、実際に部活を休んで母校の稽古に参加していたこともありました。秋の大会が終わったら剣道部を辞めて、準硬式野球部の友人に相談をしてみようと思っていました。そしてある日、僕は退部届を学校に持っていきました。部活に参加して、稽古が終了したらそれを当時主務だった八木さんに渡して話をするつもりでいました。稽古はいつも通り終わり、防具を片付けようとしたとき、彼が「1本だけ稽古してほしい」と言ってきました。当時の彼は面を付けて1年くらいだったので、1本勝負ならすぐに終わるだろうと思い引き受けました。そして、僕は彼にきれいな面を取られました。下らない事に頭を悩ませてる間、僕が勧誘して入部した彼はちゃんと努力をしてきたんだということを突き付けられて、僕は帰りの池袋駅で退部届を捨てました。それから剣道にもっとちゃんと向き合おうと決めました。本格的に剣道の研究を始めたのもその直後からです。あの時彼に負けていなければ、どうなっていたかはわかりませんが、僕にとっては忘れられない思い出です。

僕はこの6年間で24もの大学に出稽古をし、何百人ともいえる人と稽古をさせてもらってきました。その中には大学から剣道を始めたという人も多くいましたが、間違いなく大学始めでは彼が一番強かったです。みんなは彼を「すごい運動神経だ」と言います。もちろんその通りです。というよりもはや彼は運動神経そのものです。顔に見える部分が細胞体で、身体に見える部分が軸索になっている一本の神経です。感覚神経は含んでいないため多少のいじりには無反応なので、泣く泣く強めにいじっています。そんな彼ですが、剣道が上達したのはそれだけが理由ではないと僕は思っています。後輩たちに、彼から学んでほしいことを伝えます。
第一に、彼には向上心がありました。経験が浅い人はみんな内心「大学始めだからこのあたりが限界」というのを決めてしまいがちですが、彼は自分に限界を決めませんでした。始めて2年くらいの人間が、剣道一筋20年の田中先輩に負けて本気で悔しがって敗因を考えていました。上級生に稽古を頼み、食い入るようにアドバイスを求めました。剣道歴が浅いことを盾に逃げたことは一度もありませんでした。全ての初心者が見習うべき姿勢だと思います。
第二に、彼は努力家でした。向上心を持ったうえで誰よりも努力をしていました。部活の休憩時間や、合宿の休み時間、彼はいつも人より長く面を付けていました。一緒に出稽古も多くしましたし、自主練習もたくさんしました。誰かの動画を見ては研究して、失敗してを繰り返していました。心技体という言葉がありますが、体の方はニューロンだとして、彼は心が優っていました。向上心と運動能力を以て努力して、技を手に入れました。彼がこれほどまで上達したことは、すべての初心者に勇気を与えたと思います。
第三に、彼は素直でした。先輩や同期のみならず、後輩もみんな彼には厳しい言葉を投げかけることがありました。「これができていないからダメなんだよ」「何回同じミスをするんだよ」と言われても、彼は「だって」や「いやそうなんだけど」と口にして拒絶したことは一度もありませんでした。たとえ理不尽なものであってもいつも言葉に耳を傾け、自分なりに理解した上で自分にとって必要なものは取り入れ、必要のないものは除くということをしていました。必ず一回は意見を取り入れてみようとしていました。僕自身、「面は回さずまっすぐ打て」「これが僕の剣道です」と言ってきたので説得力に欠けると思いますが、彼のそういう点は何事においても大切なことだと思います。
彼のこういった点は、初心者の部員、経験者の部員、ひいては剣道に限らずあらゆることにおいて参考になると思います。

6年間、彼には迷惑を大いにかけられ、そして少しだけ支えられました。僕は剣道が大好きです。ですが部活を通して学んだことは剣道がメインではありません。部活は、人です。後輩たち同士でも、内心良く思ってない人や短所が気になる人がいるかもしれません。ですが、どうか仲間を大切にしてください。本当に辛い時、必ず力になってくれるはずです。僕は剣道部員ではなくなりますが、みんなの仲間として、みんながここに立つ時何を話すのかを見守っていきたいと思います。
時々で良いので、剣道と学業を両立させて双方に死力を尽くした甲田や、入学から卒業まで一度も部活を休まず大会でも勇姿を見せてくれた萌々花や、5年生から入部してたった1年間で部活に溶け込んだ上田と内ケ崎のことを思い出してみてください。きっと何かの時にみんなの助けになると思います。
そして時々、僕や魚本みたいな人間がいたことも思い出してみてください。
恐らく、何の役にも立ちません。

以上です。6年間本当にありがとうございました。
リーダーシップ- うえの
2021/03/20 (Sat) 17:24:43
医学部6年生の夏といえば、マッチングと言えるだろう。いわゆる就職活動のことである。
各病院によって試験内容は異なるものの、僕がとりわけ時間を割いて対策したのは面接だった。色々な本や資料をもとに、「こう聞かれたらこう答える」という台本を作り、頭に叩き込んで、それを上手く伝える練習もした。「大学時代で一番頑張ったことは?」「大学時代で一番辛かったことは?」「部活はどうでしたか?」そんな質問に対する問いを作っているときは、就職活動の一環というより学生生活の振り返りをしているような気がして、最上級生の特権を味わっているような気分だった。昔から文章を書くことと暗記をすることは得意だったので、ことのほか円滑に対策は進んでいたが、台本作りの手が一度長く止まった質問内容があった。

「あなたの長所、アピールポイントは何ですか?」

確かに、竜治は自己愛の塊だからどれか一つにするのは大変だっただろうなという歪んだ思想を持った友人の声が聞こえてくるような気がするが、そうではない。
この質問は、自由度が高いがゆえに最も人との違いを示す―まさに面接官にアピールする絶好の質問となる。聞かれる頻度も多く、これに関しては相手を唸らせるようなことを言いたい、そう思ってあれやこれやと考えるうちに思考は迷宮を辿ってしまった。謙遜しすぎるのも良くないし、遠慮がなさすぎるのも問題だ。どうしたものか…。結局良い答えが思い浮かばなかったので、自分が一番語れそうなことにしよう、そう思った時に僕の中に一つの単語が浮かんだ。

『リーダーシップ』

これだ。これなら言える。
「アピールポイントはリーダーシップです」と書き始めてから文章が完成するのに時間はあまり要さなかった。それに我ながら悪くない内容になったとも思った。
リーダーシップ。ここでもう一度重ねてなのだが、“長所”とは言っていない。“語れる”のだ。実際、僕が指揮を執ったことのある団体に所属していた人の中で、僕に優れたリーダーシップがあると言ってくれる人はそこまで多くないと思う。
自分自身、僕に優れた指揮能力があるとは思わない。だが僕は指揮を執る立場になることが人より多かった。中学高校の6年間毎年学級委員を務め、高校では生徒会長と、文化部の部長と運動部の副部長兼任、大学では剣道部と野球部の主将を兼任し、稽古会も会長を務めてきた。だからこそ、リーダーとしての経験は多いし、成功したことも失敗したことも人より多かった。
だから、語れる。自分ができたことも、自分ができなかったこともすべて含めた上で、「もし次何かのリーダーになれたらこうしよう」という考えを僕は持っている。これが僕の最大のアピールポイントである。言うなれば、「アピールポイントはリーダーシップです」ではなく、「アピールポイントはリーダーシップについて語れることです」が厳密に言えば正解になるだろうか。

本当は最上級生になった今年、新しく主将になった林田や、稽古会を今後任せようと思っている小鳥などが指揮を執ることに関して迷っていたり難航していたら、温泉に連れていって僕の失敗談や成功体験を話して明るく楽しい老害ライフを送ろうと思っていたのだが、まぁ結局叶わなかった。二人に限らず、後輩たちの中で今後リーダー的立場に立つ人材は多くいるだろう。だから、僕の中でのリーダーシップ論をここに書き記してみようと思う。というか、後輩に道を示すために書いておくなんて仰々しいものではなく、ここに文字として残すことで自分自身でも忘れないようにしておこうというメモの意味もある。需要とか知らん。書いてみたいだけ。
僕のリーダー時代を知っている人からすれば「お前どの口が言うの?」と思うような内容も多いと思うが、それは過去に実際に失敗した上で今はこう考えている、と捉えてもらえるとありがたい。これを読んでいる誰かの足しになってもらえるような内容にできれば、もしくはこれを読んだ将来の自分が、今の自分の持つ理想のリーダー像に近づくことができれば、と思う。

まずリーダーになる上で一番重要なのは、組織とはひとつの塊ではなく、人の集まりであるという認識を持つことである。
例えば、自分のやりたいことに対して部員10人のうち7人が反対で3人が賛成だった時、ストレスがかかりやすいリーダーという立場上では「みんな反対している」と思い込んで3人の賛成者が見えなくなってしまいがちである。だが7人も部員であり、3人も部員である。なので単純に諦めるのではなく、自分の意見を7人が納得できるような形にするのはどうするかを吟味することが大切だと思う。提案→確認→判断という手順を繰り返すと、採用された意見に対して反対している部員、棄却された意見に対して賛成していた部員が生じることになる。必要な手順は提案→確認→妥協点を探す→判断である。いろんな人がいる団体で0か10で物事を考えるのは難しい。手間はかかるが、みんなが賛成できる方策を考えるべきだと思う。
そのうえで難しいのが、“医療系大学の部活”である。
医療系大学には“サークル”というものが存在しない。“部活”に、サークル感覚で楽しみたい人やガチガチの部活動をしたい人が一堂に会することになる。よく誰かに対しての「部活に対しての意識が低い」という声は聴くことが多かったし、僕もそういう感覚を持ったことは幾度とあった。だが今にして思えば、サークル感覚でやりたいという人に罪があるわけではない。選択肢がないのだ。もし今から僕が主将をするならば、部活の意識が軽い人でもこなすことができるメニューを設けつつ、意識が高い人にはプラスアルファでこなすことができるようなメニューを組みたいなと思っている。その際、意識が軽い人に対して放任してしまっては差が広がってしまう一方なので、徐々にその人ができる範囲を広げるサポートをしつつ、意識が高い人には“人はそれぞれ”という意識を持ってもらうよう諭して意識の高さをキープしてもらうよう努めたいと思っている。

また、リーダーは人に感謝をし続けなければならないと思っている。
部活動にしても稽古会にしても、リーダー1人で成立するものではない。ついてきてくれる人がいて初めて成立するものである。だから、部活であれば部員、稽古会であれば来てくれる人にとって少しでも有益な活動ができるよう努めなければならない。リーダーもまた人間なので、完全無欠な存在になることはほぼ不可能であると思っている。欠けた部分を補ってくれるのは、周囲の人間である。リーダーになったからとパターナリズムに走ってしまっては、いざという時に周囲に頼ることが難しくなる。リーダーこそ、周囲とコミュニケーションをとりまくることが大事だと思う。自分以外の人間がいるから自分がリーダーとして動くことができるという認識を忘れてしまってはならないと思っている。

リーダーになる上では、人に対する“期待”を上手く扱える必要があると思う。
上に立つ以上、人の器量や能力を的確に判断し、その人に対してあらゆる期待をする場面が多いと思うが、往々にしてそれらが裏切られると信頼関係に傷がつき、精神衛生上よろしくない結果を引き起こすことがある。
なので、人に対してする期待は、「~するべきだ」「~してくれるだろう」といった自分の判断を押し付けるものではなく、「~してくれるかもしれない」くらいの塩梅で持っておくのが丁度良いと思っている。
こういった考え方は、次の段落で伝えたいことにも影響する。

リーダーは周囲や幹部とは頻繁に連携を取り、連絡を密にするべきだと思う。
僕の好きな歌の一説に「分かり合うよりは確かめ合うことだ」という歌詞がある。例えば、ある人の資質を10としたとき、6くらいの事実や出来事からその人のことを推測しようとすると、残りの4は自分が勝手に描いたある人の虚像ということになる。分かり合おうとすることで、こういったことが繰り返し生じ、誤解を招きがちになってしまうことが幹部間をはじめとする人間関係では多々ある。重視すべきは虚像を作らず作らせないコミュニケーションである。確かめ合ってお互いの認識に虚像が入り込む隙を作らせないことが、良好な幹部関係を築くコツではないかと思う。

もし自分が組閣にも携われるなら、側近にはイエスマンを置いてはならないと思う。
僕は稽古会の人数が100人を超えた時、女子医の由良に稽古会の副長を頼んだ。彼女は僕と仲が良く、剣道や剣道人が大好きだからという理由もあるが、任せた最大の理由は彼女が僕と考え方が違うから、である。
リーダーの僕が何かしら動こうとしたとき、副長が僕の意見に常に賛成してくれる人だった場合、組織が一部の限られた人を満足させるだけのものになってしまうと思った。指揮は執りやすいかもしれないが、組織としてそれはマイナスでしかない。由良は僕の意見に忖度せず、良いと思ったものは良い、改善した方が良いものは改善した方が良いとはっきり言ってくれる。そのおかげで、僕は盲目的な方向に走らずに済んだと思っている。
由良に副長を任せたのは、日大の部活での経験からである。僕が主将の時、幹部の上野魚本甲田と、場合によって1学年上の田中先輩が部内での決定権を持っていた。魚本はイエスマンではないがどちらかと言えば僕の意見に賛同して背中を押してくれる人間だった。無論、非常にありがたかったし彼がいたからできたことも多かった。一方で甲田と田中先輩は上野魚本よりも思慮深く、「それはやめた方が良い」「それは直すべき」という意見を時に出してくれる立場だった。僕は自分の判断力に自信を持ってしまう傾向があり、それによる暴走が生じてしまうことがあった為、諌められたことはしばしばあった。当時こそそれによるトラブルはあったが、そういった存在は今思えば本当にありがたかった。プライベートでの僕と甲田、僕と田中先輩は非常に良好な関係だったので、僕のため部活のためを思ってくれていたんだと思う。結果的に反対されてよかったと思う案件もあった。意見が対立するということは、それだけ双方に熱意があって対象となるものを大切にしている証拠である。なので、もし側近を2人置けるなら1人は自分の背中を押してくれる人、1人は自分に反対意見を言ってくれる人を、側近に1人置くなら自分に反対意見を言ってくれる人を選ぶべきだと思う。

また、“リーダー”として見られているということを意識するべきだと思う。
虚勢を張ったり、他人と一線を画す必要があるというわけではない。基本的にリーダーとは責任者であり、組織の不満が向きがちな存在でもある。一概には言えないが、常に周りの目が温かいとは限らない。なので僕は、特に主将の時は辛い、ストレスだ等といったマイナスの言葉は極力誰にも漏らさないよう心掛けていた。まぁ、そんなことを言うと実は裏で苦労してたみたいな感じになるが、そんなことは全くなく、漏らすほどストレスを抱えていなかったから心掛けるまでもなかったのではあるが。
また、僕が今まで見てきた“マイナスなことを言わないリーダー”はみんな周りから愛されていたので、僕もそういうリーダーになりたいなぁと思ったのが大きかった。リーダーとは組織の責任者であり、モチベーターでもある。組織をやる気にさせるも殺すもリーダー次第だと思う。だからなるべくみんなが前を向けるような言葉、姿勢を一貫し、僕自身も周りからどういう風に見られているのかを意識しながら過ごすようになった。これ自体は悪いことではなかったように思っている。
だが、この考え方は良くない方向に作用することもある。一度主将を務めていた時に部内でトラブルがあり、僕はそのことで今までになく傷ついたことがあった。そんなときも、周囲にマイナスなことを言うのは最小限にしようと思う部分があったので、積極的に人を頼るということを選択しなかった。未熟だった僕はしっかりSNSでマイナスな感情を吐露してしまったのだが、結局手を差し伸べられるまで人を頼ろうとはしなかった。そのあと事は解決したのだが、副主将の魚本にはもっと自分を頼れと怒られてしまった。リーダーという自分を意識しすぎていたのだろうと反省している。
現状の考えを文字化するなら、リーダーとして見られている意識を持ちつつも、結局自分は人間なので、全員に対して格好をつけようとはしないようにする、ということになるのだろう。

いくつかあるが、代表的な考えとしてはこれらになるだろうか。
僕は基本的に失敗することで物事を覚えてきた人間である。なので恐らく今後何かしらのリーダーを任された時、また失敗して自分のリーダー像が変わっていくのだと思う。そうした過程の中でどんどん洗練されたリーダーに近づきたいと考えている。その為にも、「長所はリーダーシップだ」と思わないようにしたい。
就活を終えて感じたこと- うえの
2021/03/19 (Fri) 12:52:49
なんでこの暑い日に上着が必要なんだ就職活動は。
折り畳んで左腕にかけていた上着を右腕にかけなおすと、汗がにじんだ左腕を涼しい風が撫でていった。整髪剤のにおいが混じった汗が額から滴る。僕はスマホで今日行く病院の理念や院長の名前を確認していた。受験する以上、全ての病院を第一志望のつもりで受けてきたが、ここはその中でも特別だった。熱気で揺れる一本道の奥に佇むその建物こそ、僕がどうしても合格したかった第一志望中の第一志望病院だった。
とは言え、ここの病院は筆記試験があり難易度も高い。正直思い出受験と言っても差し支えないほど僕とはレベルの離れていた病院だった。それでも、合格したい熱をぶつければ何かが起こるかもしれないと、僕は願書を出したのである。

会場には多くの学生が集っていたが、感染対策という点でも緊張感という点でも雑談をしている人はほぼおらず、独特な雰囲気を醸し出していた。僕は指定された席に座り、勉強道具を展開させたがやはりあまり落ち着かず、換気のために開け放たれた窓から聞こえるやけに大きな蝉時雨を聴きながら時間を持て余していた。
やがて、試験が行われた。詳しくは書けないが、思っていたよりも意外とできた。英語の筆記問題も出たが奇跡的に僕が回答できる分野の問題だった。面接次第ではなんとかなるのでは、、、そんなことを考えられるほどには手応えを感じていた。
加えて言うならば、かねてより面接には自信があった。ここまで面接試験を6度経験していた僕にとって面接はもはや特技とも言えるようにはなっていた。そのことをある友人に言うと「竜治がいかに言い訳で生きてきたかが知れるな」「口だけは回るからな」「第一印象だけなら騙せるからな」と絶賛された。卒業を機に友人関係を精査するべきかもしれない。
さて、そんな僕が他の病院でどういった面接のやりとりをしてきたか、その時考えたことと共に少し書き出してみようと思う。もちろん、真面目なやり取りなんて紹介しない。


ある病院にて。
「剣道四段って部内に一人?」
「はいそうです」
「じゃあ一番強いんだ」
「いえ、全くそんなことはありません」
「へぇ。四段ともなるとやっぱり謙遜できる人になるんだねぇ立派だ」
い、いや、あの、ほんとにちゃいますねん。
「じゃあ上野くん、四段の人でも参段や弐段の人に負けちゃうことが時々あると思うんだけど」
時々勝てることがなくもない、の上野さんとしては問題文の段階ですでに破綻が生じている。どうする。これは得意の剣道トークが絶体絶命か。
「段位と強さって関係ないのかな?」
「はい、全くないとは言い切れませんが、段位と強さに関しましてはイコール関係ではないと認識しております」
「ほお。なんで?」
「はい、剣道における段位とは、古来より伝わる剣道を正しく修得し、剣の理法に基づいた稽古をすることができる人物に与えられます」
閻魔様、僕が死んでも舌を抜かないでください。これを言ってる僕が一番辛いということをお察しください。
「一方で、そういった剣道を攻略するための剣道というのもまた存在します。その場合、継承されてきたものとは異なりますが、結果は残しやすい剣道というものが誕生します」
そして誕生しました上野竜治と申しますこんにちは。
「なるほどね。上野くんはどっちの選手になりたい?」
「はい、四段は稽古を指導することができる立場ですので、現代に継承された剣道を次世代に伝えていくことが私の使命と考えております」
これはあれだ、面接という戦場で戦うための“変身”だ。嘘をついたのではない。断じて。
「なるほど。じゃあ君の剣道をしっかり後輩にも教えてあげないとね」
「はい、精進いたします」
僕のことを少しでも知っている人から見ればこのやりとりは「ショートコント“面接”」でしかないだろう。大人になるってきっとこういうことなのだと痛感した。
ま、僕の剣道をしっかりと後輩に刷り込ませるという務めだけはちゃんと果たしてあげようと思っているが。


ある病院で5人の面接官を前にしていた時。
真面目そうな女性の方に質問をされた時のことである。
「特技はありますか?」
その質問を待ってました。
「ものまねが得意です!」
「そうですか」
・・・え、あの、やってみてくださいとかないんですか?
もしかしてですけど、ヤバい奴来ちゃったって今思いませんでした?
「せっかくならやってみてもらいましょうよ」
5人いた面接官のうち、真ん中の人が促してくれた。最強の助け舟が出航。
「そうですね、ちょっとやってみてください」
「はい!では失礼いたします。『人の恩義は感じますが、やられたらやり返す。倍返しだ!覚えておいていただこう』」
渾身の半沢直樹。声真似のみならず顔真似付き。大ウケである。前日ちゃんと練習しておいた甲斐があった。就職すらしていない段階で病院の上層部に対して倍返しを宣言という本家もびっくりの展開ではあるが僕は心から満足していた。
だが、4人が笑っていたのに対して真面目そうな女性が全く笑っていなかったことに気が付いた。これはマズい。ウケを狙いに行って滑ったら、それこそほんとにただのヤバい奴じゃないか。なんとかして笑わせなければ。
「そして僕はビッグマックを食べる」
呟くと、最後の女性も吹き出して笑った。やった。完全勝利。イロモネアなら100万円獲得レベルということを考えると、僕の合格は間違いない。
「なるほどなるほど。で、研修医としての~」
以降、オーディション気分になってしまった精神状態を切り替えるのがとっても大変だった。


他の病院にて。
「あなたの短所を教えてください。それの具体的なエピソードと、改善策を教えてください」
なるほど、短所ですね。ありますよ自他ともに認める大きな短所が。
「はい、私の短所はケチなところです。相手が後輩だろうが僕の財布のひもは緩まることを知りません。4学年離れた後輩3人と旅行に行った時も100%割り勘でしたし、後輩にジュースをおごれば「何かあったんですか?」と驚かれ、食事をおごれば「どうされたんですか?」と心配されます。中には数年前に渡した100円玉を「希少価値が高すぎる」と御守り代わりに持ち歩いている後輩もいます。先日に関してはガソリン代をケチりすぎて街中で車が止まりかけました。改善策としましてはウーバーイーツで給油代を稼ぐことです」
と、言いたい気持ちを抑えるのに必死だった。
上野さんは真面目なので他のことを答えたが、この時は少し危なかったと思う。もしオーディション気分の時に出題されていたら確実にケチエピソードを披露していたことだろう。ちなみに、エピソードは哀しいことにすべてノンフィクションである。

なお、3つ抜粋した上で信じてもらえないだろうが上野さんは極めて真面目な回答を他では見せていたので、これを読んで「面接はネタで答えるといいんだ!」とならないでいただきたい。もしなったとしても出典をこの日記としないでいただきたい。よろ。

そして場面は試験会場へと戻る。
昼食をとった僕は、その後呼ばれるがままに面接室へと入室した。
面接の雰囲気は極めて和やかだった。この日は適度な緊張感からか頭が回転してくれたおかげで全ての質問に詰まりなく答えることができた。
そして最後の質問。僕は虚を突かれることになる。
「じゃあ上野くん、武士道の精神って医療の現場でどの辺が活かせて、どの辺が活かせないかな?」
僕が就活中に聞かれた全ての質問の中でこれが一番難しかった。面接で聞かれそうな質問にはあらかじめ答えを考えていて、それを軸にあらゆる質問に回答してきたのだが、この質問は用意してきたどの回答も則さなかった。
「まずは活かせるところからお願いしますね」
だが、僕も僕なりに9年間武士道と向き合ってきたつもりだ。瞬時に剣道生活における自分の武士道とは何だったかを模索した。病院と部活、規模は違えど双方とも組織であることに変わりはないはずだ。部活で感じたことをもとに考えれば答えられるはず。
「はい、まず活かせる点といたしましては忠義と感謝の気持ちであると思います。医師として働く以上、病院に対して働かせてもらっていることへの忠義、患者さんに対して勉強させて頂いていることへの感謝を忘れないように持ちたいと考えております。また、「武士道は死ぬことと見たり」という言葉があります。これは、「いつ死を迎えても後悔しないように日々を懸命に生きるべき」という意味です。武士道の精神を以て日々懸命に、感謝と忠義を忘れずに働くという点で武士道の精神を活かすことができると思います」
「じゃあ活かせないところは?」
「柔軟性であると考えます。武士道の精神を体現した新選組では、いかなる理由があっても規律を犯した際の処罰が切腹となっておりました。物事を白か黒で考えなければならないという点に関しては、臨機応変さが求められる医療の現場で活用しかねると考えます」
「なるほど」
…言えたんじゃないかこれは。
「上野くん」
「はい」
「ぜひ一緒にやりましょう。よろしく」
そして2か月後、僕のもとに合格の通知が届いた。


そんな就活を終えて、僕はどうしても後輩たちに言いたいと思っていることがある。
僕の大学時代の学病の成績は特筆すべきものではなかった。常に真ん中くらいである。それでも就活では僕にとって最高の結果を出すことができた。
それはひとえに、僕なりに剣道に全力になれたからだと思う。
剣道に熱を注ぎ、色々な経験をして、色々な考え方をしてきた中で自分という人間の軸を構えることができたように思う。
だから後輩に伝えたい。剣道ではなくてもいい。自分の大学生活を振り返った中で、「これに関しては俺は頑張った」と思えることを何か一つやってほしい。勉強、部活、人間関係、恋愛、趣味、本当に何でもいいと思う。
僕は偶然それが剣道だった。
恐らく今後、僕はまだ剣道を続けるが頻度は学生時代と比べ大きく減るだろう。ましてや、学生最終年をコロナ渦で過ごしてしまった自分の剣道熱は正直どれほど残っているかと言われるとかなり怪しい。3,4年生の頃、僕は生活を剣道に捧げた。四六時中剣道のことしか考えてなかった頃を考えると、あの状態にはもう戻れないと思う。身体的には鍛え直せば何とかなるかもしれないが、精神的に戻ることができない気がしている。だが、それで良いとも思う。5,6年生で僕は勉強や旅、何かのデータを集めて計画を立てることなど、剣道とは別のものに熱が入るようになった。この先、僕は新しくまた何か熱中できるものを見つけてそれに向き合うことになると思う。それが再び剣道になるかもしれないし、剣道ではないかもしれない。だがそれでいいと思う。今までも自分にとって第一となるものは移り変わってきた。大切なのは何かに熱中できるということである。熱中できるものがあって、熱中できる自分を持てることが大事なんだと思う。熱中した上でいろいろな経験をしていろいろな気持ちを持つことが未来の自分への財産になるんだと思う。

だから、後輩たちに伝えたい。何か一つでいいから、熱中できるものを見つけてほしい。
そしてそれに、全力でぶつかってほしい。
それがもし剣道だったとしたら、僕はこの上なく嬉しい。
Re: 就活を終えて感じたこと - み
2021/03/19 (Fri) 13:47:26
よき◎
最後の1年で教えたかったことを、後輩たちへ- うえの
2021/03/18 (Thu) 14:28:42
6年生になっても部活に出続けよう。現役部員よりも部活に参加して、一つでも多く剣道部での思い出を残そう。まだまだ努力して、最後の最後まで後輩たちと全力でレギュラー争いをして、どんな形でも良いから日大医剣道部に僕なりの恩を返そう。
2020年元旦、僕が立てた一年間の目標である。いま思えば、国試や卒試に関する目標を立てるのを忘れていた。まぁそれは良いとして。
結論から言うと、それらの一年の計は果たすことができなかった。
僕の大学生活最後の一年は、記録上空白の一年となってしまったのである。
後輩たちと話す機会も大幅に減ってしまった。僕はまだ彼らに何かしらの形で遺したかったことがたくさんあった。
なので、それらのごく一部を、この日記に残していこうと思う。
以前の日記で僕は、「学生生活が終わるということは、大学生の上野竜治が死ぬということである。そして同時に、大学生の上野竜治を種に社会人の上野竜治が生まれる。この主将日記は、学生上野竜治の遺言書である。いつか書き終えたいと思っている」という旨を書いた。
その時が、いよいよ来たのである。残り5回をもって、主将日記は終了し、ホームページごと閉鎖しようと思っている。

よくコメディを軸にしてシリアスな場面をスパイス程度に加えていたドラマが、映画版で伝えたいことが多すぎてシリアスがメインになり、結果として作品の印象が大きく変わってしまうといったことがある。主将日記はラスト5回でそうならないようにしたいなと思っている。…と思って書き始めたのだが、結局伝えたい思いが多すぎてほとんど全部ちゃんとしたお話になってしまった。むーなかなか難しいものである。
なにはともあれ、僕が6年間の大学生活、ひいては24年間の人生を経て後輩たちに残したいことを、明日から書いていこうと思う。
もし、最後まで付き合ってやるよという寛大かつ“暇すぎて死にそうな人”がいたら、ぜひ読んでもらえれば、と思う。

『ありきたり』6年春- うえの
2020/05/24 (Sun) 20:12:27
小鳥と魚本と稽古をしていた。
この日大医が誇る三馬鹿はどうしても自主練をするとなると集まってしまうことが多い。
夕焼け空を微かに覗かせる、穏やかな道場。
大学剣道で初めてのレギュラー落ちを宣告されたのは、そんな場面でのことだった。
3人で回していると生じる僕だけの休憩時間の際、道場に入ってきた林田に僕は医療系大会のオーダーは決まったかと尋ねると、新主将は丁寧かつ淡々とオーダーを述べたのだ。
その中に僕の名前はなかった。だが、それは僕も覚悟していたことだった。恐らく僕がオーダーを組んでも同じものにするだろうといったオーダーだった。
「じゃあ面打ちお願い」
僕が打つ番になった。
面白い。この状況、めちゃくちゃワクワクする。最後の一年で失ったレギュラーの座を取り返すなんて面白いことこの上ないじゃないか。それに、このメンバーにさらに強力な一年生が加入したとすれば、ますます僕のレギュラーは危うくなってレギュラー争いはより活発になる。
僕が努力をすれば、うかうかしていられないなと現行のレギュラー陣を脅かすことができる。そして全体の士気が高まって、最後は僕が後輩たちと試合に出て活躍して、入賞してチームを去っていく。いいなそれ、やろう。最後の年までこんなスリルが味わえるなんて幸せだ。
そう思って面を打つと、面布団からぽこんと心地よい音がした。




ー自粛期間連載初回の場面に戻るー
もうだいぶ本数を振った。はなから数える気もなかったので、一体何本振ったのか見当もつかない。
こうして過去のことを振り返ると、やっぱり試合やその時々のことを思い出して血が滾るというか、みんなと喜びを共有してきたときのことが鮮明に呼び起こされる。
そして過去を振り返り、僕は気づいた。

新しい仲間との出会い、友達と飲む時間遊ぶ時間、出稽古、実習、部活、試験、大会。
これらは所謂“日常”と呼ばれるものだ。
僕たちは日常を生きることを普通のことと考え、日常を失ってしまった今を忌み恨んでいる。
だがそうではないのだ。
当たり前だと思っていたことのすべては奇跡的にありとあらゆる要素が噛み合って形成されていたもので、日常を日常として送っていたこと自体が奇跡の集合体だったのだ。
僕らは足元に転がっている奇跡を日々当たり前のように感じていたが、こうして過去を振り返り、そして今を見たときに思うことは、当たり前が当たり前であることに対して僕らはもっと感謝をするべきだったのだということである。
日常が日常であり、当たり前が当たり前なのは奇跡なのだ。
そして、何もない今の日々がそれに気付く機会を与えてくれたのだと思っている。
大切なことは、失ってみないと分からない。何においても、である。
だから、きっと僕は今この瞬間も幸せなんだろう。この自粛生活が終わったら、いや、いまこうして生活できていることに対しても改めて僕は感謝を実感しようと思った。あらゆる理不尽や情勢に対する不満や怒りにエネルギーをぶつけるくらいなら日々の何気ないことを大切にしていたい。
相対的に考えれば不幸かもしれないが、絶対的に考えればそれは決して不幸ではない。これがかの有名なアインシュタインの相対性理論である。違うかもしれない。てか違う。

だいぶ夜も更けてきた。疲れたし寒い。
明日はさすがに勉強しないとなぁ、、、。嫌でも僕のなかで“卒業”への意識が遠くの方で小さく灯り始めていた。僕個人の見解として、何かが終わるということを悲しいと思うのは、それはその時のその状況の人が死を迎えるからだと思っている。
卒業すれば学生としてのその人は死を迎え、社会人としてのその人が生まれる。引退すれば選手としてのその人は死を迎え、OBとしてのその人が生まれる。もっと言えば、今日が終われば今日のその人は死を迎え、明日のその人が生まれる。
学生としてのその人ともう会うことはできなくなるし、選手としてのその人と会うことも、今日のその人と会うこともできなくなる。

それでも、文字は死なない。
明日が来ても、引退しても、卒業しても、文字に起こした僕の考えや言葉は死なない。
よし、今日素振りをしながら振り返ったことを全て日記に書こう。文字にする以上書けることは限られてくるが、書けるだけ書いてみよう。僕は決めたのだった。
まだ学生としての余命が一年ある僕の日記は完結しない。恐らくまた試合があれば書くし、最期は最期なりの形をとって完結させるつもりでいる。
だから完結はさせられないが、せっかくの機会だから書いてみよう。
選手上野竜治としての遺言書の一部を。



一度区切って、あと10回だけ振って終わりにするかな。
1、2、3、4、、、、、、、、
よし、あと一本。

そこまで振って、思った。
いや、思ってしまった。
考えないようにして蓋をしていたものが、疲労ついでに顔を覗かせてしまったのかもしれない。




この素振りが意味をなす日は、果たして来るのだろうか?



そう思った途端に僕にだけ見えていた面布団はこの世界から姿を消し、竹刀の音は住宅街に虚しく響いたのである。
『肉とキモ面と私』5年冬- うえの
2020/05/23 (Sat) 19:38:49
僕は林田と二人で温泉に来ていた。
「帰り何食べたい?」
「肉です!」
「に、肉か」

今から一年前も僕と林田は温泉に行き、帰りに焼肉を食べた。そこで林田が「先輩、焼肉の食い放題ってほとんどもと取れないらしいですよ」と言った。それが僕の闘争心に火をつけてしまい「林田、この店潰すぞ」ということになり、食べ放題を注文した僕たちは部活みんなで来た時に注文するかどうかくらいの量を注文し、焼いても焼いても運ばれてくる肉に何度も心を折られかけながらもどうにかそれらを完食し、そして腹を壊したのである。潰されたのは僕たちだった。

「食べ放題?」
「ほかにあります?」
「なんか俺失敗する予感がするんだけど」
「人間は失敗から学ぶんですよ先輩」
「去年俺たち失敗したのに学んでなくない?」
「今回も失敗することで、より人間として洗練されていくんです」
「なるほど」

結果、僕たちはこれでもかというくらい洗練されることになったのである。
そしていろんな話をした中で、もうみんなと剣道できるのも1年だなーという話題になったとき、林田が
「卒業後も来てくださいよ」
と言ってくれた。ありがてぇなぁ。
「なるべく最優先で来るよ。それに、俺は林田をCBT前日に温泉に連れていかないといけないからな」
「うげぇ覚えてたんですね」

僕が4年生の時、CBTが行われたのは9月の上旬だった。一か月前に主将としての東医体を終えることになっていた僕は「東医体までは東医体のことだけ考えていよう」と、全くQB(CBTの問題集)に手を付けなかった。そして東医体が終わり、さぁやろうかという日になって僕は体調を崩して5日間寝込んでしまったのである。体調が戻った翌日、さぁやろうかと思ったが僕はその日から1週間九州に旅行に行くことになっていた。ま、いいや九州にQB持っていけば。僕は荷造りを終え、トランクを持ち上げた。、、、、、重い。すんごく重い。重すぎるなんだこれ。何がこんなに荷物を重くさせているんだ?僕はトランクを開いた。あ、QBか。こいつらのせいで重いんだ。置いていこう。そして僕が九州から帰ってきたときはCBTの2週間前であった。ヤバい。さすがにヤバい勉強しなきゃ。僕は1週間猛勉強をした。結果、飽きてしまった。そして欲求には耐えられず僕はCBT一週間前の部活にすべて出て、ついでに免許の更新まで行ってしまった。そしてCBT前日、稽古を終えた僕は林田とともに銭湯に行ったのだ。そこで僕が合格したら、林田もCBTの時俺が温泉に連行するね♡という約束を交わしたのだ。そして迎えたCBT、結局QBは200ページ近く終わらなかったが、運で医学部生活を乗り切ってきた僕はここでもそこそこの点数を取ることができた。だから僕はたとえどんなに忙しくなっていようが石にかじりついてでも林田をCBT前に温泉に連れていかなければならない。
「でも林田ならCBT一週間前毎日温泉に連行しても大丈夫かもね」
「そん時はすいません、ぶっ飛ばします」
「何度そうなろうが連行してやる」
「いやだあぁぁ」
早く林田主将の部活に参加したいな。改めて思った。
彼が望むならどんなこともするし、彼が望むならなんにもしないつもりだった。
彼の主将生活の一部しか僕は見ることができないが、どうにか力になりたいと思っていた。CBTに関しては全力で足を引っ張る所存だが。

「あとあれだね、林田くん、ひとつ提案なんだけど」
「なんですか?」
「今後の基本稽古の技練にキモ面を加えてみてはいかがかな?「次キモ面!」と号令をかけてみんなでぶるん」
「退部させますよ」
「そんな殺生な」

林田は名付け親のくせにアンチキモ面派だ。まぁアンチじゃない人の存在は「キモ面を教えてくださいよ」とわざわざLINEしてきた小鳥くらいしか知らないのだが。
そもそも、僕の大学剣道での大まかな目標は「自分より経験年数が長くて、自分より強い相手に勝つ」ことだった。だが2,3年生のときに戦略を立てて剣道をするなかで、僕はその目標を達成するためには、従来の常識にとらわれない攻めや打ち方をして、誰も見たことがないような技を開発してそれで戦う必要があると感じたのだ。
言ってしまえば、剣道における打突部位は面、籠手、胴、突きの4ヶ所しかない。だが、例えば面ひとつで考えても、表から打つ面と裏から打つ面は別の技で、払ったり巻いたりフェイントをかけたり連続技にしたりすればそれも別の技、それぞれを表裏や遠間近間でやればそれもそれぞれ別の技になる。すなわち、それぞれの部位を打つ技は考えようによっては無限にあるわけだ。ならばその無限の可能性の中に、何故か対処できない技だってあるはずだ
この考えは別に悪いものではなかったと思う。だが、そんなこんなで出来上がってしまったのがキモ面である。なにゆゑ。
しかしネタにこそなってしまっているが、キモ面は究極の初見殺しになった。上手く使えば明らかな格上に勝つことだってできるし、その技のおかげで勝てた試合も数えきれないほどあった。今やそのレパートリーは10本目まで存在する。中には漫画のような大技だってあるし、円月殺法と名の付く(自称(痛い))ものまである。

まぁそれらを開発するにあたってはある日突然思い付いたからといって、
「魚本!すごい技思い付いた!昼休み道場!」
「えぇぇぇええまたぁぁあ?」
といって魚本を道場に連行した挙げ句、
「どんなの思い付いたの?」
「えーっと、相手が籠手を打ってきたところで竹刀から右手を放して、左手一本で竹刀を振り上げて、接近してきた相手に左手を短く持ち替えた竹刀で正対したまんま横から引き面を打」
「できるかぁぁあ!」
「やってみなきゃわかんないでしょうが!」
できませんでした。

またある時は、
「今日は何」
「持田さん(他校の先輩)が新しいキモ面を思い付いてくれて」
「もうどうにでもなってくれ」
「何て言われたか気になるでしょ」
「ならない」
「横で回すのがいけるなら、上で回すのもいけるんじゃないかって」
「俺持田さんって良い人だと思ってたのに」
「でね、竹刀を掲げて、頭上で一回転させて籠手を打つっていう技なんだけどね」
「まぁ受ければ良いのね」
やってみた。
「んー薄々気付いてたけど、上で回す分威力は出るけど、いかんせん外れるねぇこれ」
「謝罪は終わり?」
「おつかれした!」
だめでした。

またあるときは稽古中に師範に呼び出され、
「上野くん、最近の面なんだけどね」
「はい」
「だぁめだよあんなに回しちゃあ」
「はい」
師範は悲しそうな目で続けた。
「面はもっと真っ直ぐ打たなきゃ」
「はい、すみません」
「回さないでよね」
「はい」
直後の地稽古。ぶるんっ。
「あのね上野くんね」

このように犠牲を払って逆境に立ち向かいながらも日々キモ面は求道されているのである。
日本鬼猛面協会への入門、希望の方は上野までご連絡を。

『別れ』5年冬- うえの
2020/05/22 (Fri) 18:42:54
ちなみにそのオフの間には納会があった。安孫子、島津、田中先輩が送り出されたわけである。
僕が3年生の時に入部してきて、いつも問題を起こすトラブルメーカーながらもなんだかんだ剣道のことも剣道部のことも好きで、周りを笑わせてくれる面白い奴だった初代看学剣道部主将安孫子。
僕が主将だった時に人数合わせのために入部してきて、最初は興味なさげだったのにどんどん剣道部が好きになって、最終的にはマネージャーとしてというよりひとりの部員として十分すぎるほど剣道部に貢献してくれた島津。
そして、言わずもがな、田中先輩。
この3人がいなくなってしまうのは送る方も寂しいものがあった。

安孫子は最後の挨拶で何かかますかなと思ったが普通だった。彼も成長したということか。
島津は涙ながらに魚本や篠崎を始めとする部員に感謝を述べていた。しまこ、僕は?
そして、田中先輩はと言うと、最後の“一言”で10分以上の大演説を繰り広げた。それだけこの人は剣道部が大切だったのだ。部員全員にメッセージを送ったのである。
「篠﨑は~、谷は~」
そのどれもが、その各人に寄り添ってきたからこそ言えるようなことばかりだった。良磨キングダムを共に支えた八木さんはもう目を赤くしながら笑っていた。
「魚本は、まぁいいとして。上野は」
「いやちょっとちょっと!」
さすがでございます。
「まぁ冗談なんだけど、魚本は~」
その時間が楽しみなような、来てほしくないような。
「上野は」
僕と目が合う。
僕にとって、スーツを着て立っているのは卒業する六年生ではなく、五年間の僕の学生生活の中で最も一緒に食事や遊びに行った先輩、だった。
「上野はなんていうか、僕にとっては後輩というか友達みたいなもので」
先輩は言った。
先輩は上下関係を重んじる人だ。僕が主将だった時、あることがきっかけで僕は先輩に失礼を働き、その時に「俺はお前の友達でも何でもないんだぞ。先輩なんだと思ってるんだ?」と怒られたことがあった。
先輩と接しているとき、どんなに楽しくても胸の奥の奥にはその時の言葉が残っていたのだが、この瞬間になって、それは魔法のように消えたのだった。
友達かぁ。自然と顔がほころび、視界がぼやける。半笑いの表情を浮かべながら先輩は続ける。
「みんなもわかると思うんだけど、今の剣道部があるのは上野の貢献っていうのが大きくて」
天井を見上げる。もっと普段みたいにディスって下さいよ。まぁでもわかってます。先輩なら最後にディスるんでしょ。上げといて落とす的な。わかってますから。僕は先輩を見た。
「本当に感謝してるよ」


月日は流れ、僕は四段を取って“日大医剣道部の四段は田中と上野の二人”という状態になったのである。四段を取って真っ先に思い浮かんだのはそれだった。
それはそうとして、
「お、ジュン四段お疲れ様です!」
堀は僕のことをジュン四段と呼ぶ。
「ん、堀参段かお疲れ。それでなんだそのジュンってのは。純粋の純か?なるほどねぇ純粋な美しい四」
「ちがいます。準四段です。あの漢検準二級的な。つまり3.5段です」
「いやいや僕まっとうな四段だからね」
「嫌です!認めません!」
「僕の正剣は日本剣道連盟が認めるレベルなのだよ」
「邪剣の神みたいな人が何言ってるんですか!」
まあ普段の自分とは真逆の剣道をしようと思って臨んだら受かったというのは事実だけど。
「ま、僕に倣って稽古に励めば、君もいつかは四段が取れるようになるだろう」
「四段は取りますが、絶対先輩には倣いません!」
「なんなら剣道を教えてあげても良いぞ」
「やです!キモくなる!てか一年生入ってきても指導しないでくださいよ!」
「一年生のみんなー!キモ面体操はじめるよー!はーい左手を中心から外していーーーち」
「やめてぇええ!部活が崩壊するぅぅぅうううう」
「ま、剣道のことなら何でも聞きたまえ」
「じゃあ地稽古やりましょう」
「いいだろう」
ぼこられました。
「あれれ、あれあれ準四段?」
「腕を上げたじゃないか堀くん。後輩に敢えて打たせて自信をつけさせるというのも四段の宿命だ。まったく苦労が多いものだね」
「あ、じゃあもっかいやりません?自信ちゃんとついたんで」
「ううん大丈夫」
そんなわけで上野純四段は奮闘しているのである。
「よかったら日本鬼猛面協会に入門するかい?」
「入門して乗っ取って流派を潰すのはアリですか?」
「残念だが我が流派は平安時代は公家の間で重宝され、戦国の乱世でも絶えることなく続いて古くは古今和歌集にも出てくる由緒正しい流派だからね。入門後2年間はキモ面体操しかさせないのだよ」
「試合して勝ったら師範譲るとかにしてくださいよ!」
「考えないこともないが、、、。我が流派では真っ直ぐな面は面にあらずという教えがあるからね。僕からキモ面を取らないとダメだよ?」
「負けました」
「入門?」
「しません」
やれやれ、ターゲットは今年の一年生にするかな。

他にも、田中先輩と計画して試合用の袴を作ったり、後輩たちを次々に温泉に拉致したり、魚本のバイト最終日の閉店後に店に駆けつけてコーヒーを作ってもらったり、自主練で使っていたカーボン竹刀がいよいよバキバキに折れたのでガムテープで補強したら小学校の図工の成績2の人が悪ふざけで作ったような謎の棒が出来上がってしまったり、みんなのおかげで稽古会を毎月開催することに成功したり、魚本の誕生日に鯛のお頭(のみ)を購入してロッカーの中に吊るしておいたり、僕が実習から急いで駆け付けた結果道場に篠﨑しかいないなんて時があって絶望したり、人が集まらな過ぎて急遽道場にいた部員を杏林に拉致して出稽古させてもらったり、田中先輩の家に行って料理をふるまってもらったり、道場で寝ている魚本の顔に落書きしたら間違って油性のペン使ってしまっていて追いかけ回される羽目になったり、田中先輩と二人で6日間にも及ぶ卒業旅行をしたりと色々なことがあったが、それはここでは割愛とする。
『四段合格』5年冬- うえの
2020/05/21 (Thu) 21:00:23
秋関が終了して数週間後に昇段試験が行われると、僕と篠﨑が初めて四段に挑戦した。
結果として二人とも落ち、篠﨑は相手が上段だったことを50回くらい口に出して恨んでいたが、昭和の同期や北里の後輩の他、慈恵の後輩や女子医の友人など多くの知り合いが合格を果たした。中でも後者2人は昇段試験直前に一緒に稽古をしたので自分のことのように嬉しかった。

そしてオフの間、秋関の反省を胸に「いつまでも右手中心の剣道を言い訳にするのはやめよう」と、抜本的に面打ちを改革した。帝京の友人二人が足しげく日大医まで通ってくれたり、慈恵や昭和、女子医順天横市果ては横浜の病院から日大医まで来てくれた人もいた。小鳥や魚本、上田、田中先輩にも付き合ってもらった。いろんな人にアドバイスを乞いながら、僕は面打ちの改革と引き技の習得に明け暮れた。面打ちは足の角度を少しずつ調整したり体重のかけ方、膝の曲げ方、体幹の力の入れ方、足の開き方、腕の位置、手首の使い方、足捌きなど、僕の今までの面の常識というものを捨てて研究した。
その結果。抜本的な新しいキモ面を思いつき、習得した。なんでやねん。
まあそれは置いておいて、研究途中ながら面打ちは確実に前より良くなった気がする。引き技もあとは出しどころさえ実戦で積めば使い物にはなるのではなかろうかと思う。

また、この時期「もっと足を鍛えなければ」とすり足をひたすらにやった。
とは言えど、だ。すり足練習はみんなでやろうとすると敬遠されるし、一人でやると途中で飽きるし、何か良い練習法はないものか。そんなことを登校中に考えるようになったときだった。僕はある朝、京王線の満員電車のドア付近に立っていた。なかなかドアが閉まらず、発車ベルが何度も鳴る。その電子音を聞いて、僕はひらめいてしまったのだった。
名付けて“シャトルすり足”!どーん。
これは、YouTubeでシャトルランの音源を再生し、それに間に合うように試合場の線から線まですり足をするというもの。シャトルラン20mに対してすり足10mはちょうどいいし、徐々に早くなるから体を壊す可能性も減る(多分)。そして最後は限界への挑戦。
僕って天才かもしれないと思った。

シャトルすり足をだいたい一日200回くらいやるのが日課になっていた中、僕に二度目の昇段試験の機会が訪れた。
正直言って「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」で受けるだけ受けてみるかと受験した。だから昇段対策も前回ほどしなかったし、自分自身受かるつもりで受けていなかった。
なので自分の番号が掲示されていた時は予想以上に大きな声が出てしまった。
結果として、面の改造とすり足練習が良い方向に作用したらしく、なんと大学剣道の目標(個人戦ベスト16、団体戦ベスト8、四段)のうちの一つ、四段合格を達成してしまったのである。
ここまで書いてきたように、僕は常々色々な人に支えられて剣道をしてきた。ここに書いているのは僕の剣道生活のごくごく一部にしか過ぎず、他にも本当にいろんな人にいろんな形で支えられていた。その結果、僕は四段を取ることができたのだ。

そんな中でも僕にとって特に剣道で大きな影響を受けた人は5人思い浮かぶ。高校の顧問、高校の同期、田中先輩、尾前、持田さん(他校の先輩)である。
高校の顧問には剣道というものを教えてもらい、剣道においても高校生活においても僕の礎を築いてくれた人だった。
高校の同期は同じタイミングで剣道を始め、共に補欠の枠を争って切磋琢磨した親友で、高校剣道は彼の成長に追い付け追い越せでやっていた部分が大きかったように思う。
田中先輩には大学に入ってから初心者剣道から経験者剣道に変遷する中での過程で色々なことを教えてもらい、技術だけでなく部活に対する取り組みや意識も教えてもらった。
尾前は入学以来未だに部活に皆勤しており、どんな状況でも物事は両立できるということを教えられたし彼女の試合を見なければ僕は未だに自信のないまま剣道をしていたと思う。
持田さんは上級者や医者になっても剣道との文武両道は可能という道を示してくれた人で、持田さんに会うまでの自分は五年生の夏での引退を考えていた。
当人たちにしてみれば、「影響受けたとか言ってる奴がそんなキモい剣道をしてると考えると嘆かわしい」と思うかもしれないがそこはご愛敬ということで。
そして何より、この日記を読んでくれているあなたにも僕は支えられたことでしょう。本当にいつもありがとうございます。
『悩』5年秋- うえの
2020/05/20 (Wed) 20:11:44
劇的な幕切れとなったが試合結果は引き分けで、東海も日大医も2勝1敗1分けである。
こうなれば順位は、試合ごとの勝者数得本数の合計によって決するのだ。僕たちは食い入るように対戦表の本数を換算した。

――――足りない。
何度数えても、東海に3本足りていない。いや、そんなことがあるか。足りない、ともだめだ、とも誰も口を開くことはなく、ただただ全員が自分の計算ミスを期待していた。係員が最終結果を対戦表に書いて、順位欄に東海“2”日大医“3”と書くその瞬間まで、誰もその場を離れようとしなかった。
会場を去るとき、それまで“今日は調子が悪くないから大丈夫”と思っていた気持ちが一気に崩壊した。去り際に、僕が日医戦で試合をした部員は後期ほぼ全く部活に出ていなかったことを聞いて全てに絶望した。
本数差で負け。今日スターティングメンバーに名を連ねた5人のうち僕だけが一本を取れなかった。2本負けも2回した。
あんなに勝ちたかったのに。あんなに忙しくても部活休まなかったのに。頑張ったのに。
それから1週間は、家で竹刀を見るだけでも吐き気がした。
俺はどれだけの人を裏切ってしまったのだろうかと嫌悪感に苛まれた。


一週間悩んで僕なりに出した答えとしては、頑張ったからどうの剣道が好きだからどうのなどは勝負の場においてなんの効力もなく、大会で満足したければ結果を出さなければならず、結果を出すために頑張るのだから「せっかく頑張ったのに」と嘆くのは筋違いである、というごく当たり前のことである。
例えば頑張って準備したことが無駄になってしまったり、頑張って積み上げたものを簡単に失ってしまうことは部活に限らずよくある話であるが、たとえどれだけ頑張ったとしてもその頑張ったという時間は良くも悪くも過去のものでしかないのである。例を挙げるなら、難しい課題の発表をしなければならなくなったとして、当日までに頑張ってどうにか仕上げたのにいきなりその発表が中止になってしまったとする。その時は嘆かわしく思うだろうが、冷静に考えればそれによって頑張った時間までが奪われるわけではなく、今これから自分が失うものは何もない。中止という結果が出てしまった後においては“頑張ったということを形にしたもの”を表に出すことが叶わなくなっただけで、“頑張ったという無形のもの”は自分の中に残り続ける。
そう思うようになってから、完成間近のレポートのデータが消えようがセッティングした大きめのイベントが潰れようが、一時の無念さは感じても特に何も思わないようになった。熱が冷めたわけではなく、それはそれとして「仕方ないか」と割り切ることができるようになった。変えられない過去を後悔するくらいならこれからの事を少しでも良くしてやろうと思えるようになったのである。

ではなんのために諸々のことを頑張らなければならないのか。その事を教えてくれたのは身近な人々だった。
僕の彼女は毎日1000本素振りを自主的にしていたが、それでも結果が振るわないことが多かった。僕の女子医の友人は剣道が本当に好きで他人には真似できないほど努力をしているがそれでも結果がいつも良かったわけではない。そういう人たちも何度も嘆き、悲しみ、それでもまた竹刀を振り続けるんだろうと思う。
詰まるところ、いつか良い結果を出したいならそれまでは頑張るしか道がないからである。

これから先、剣道部員として送れる時間は長くなく、これから先は大会ごとに“最後の~”と名がつく。その時間を湿っぽく過ごすのはあまりに勿体ないが過ぎる。僕には試合の悔しさを試合で返すチャンスが、まだある。
田中先輩と一緒に試合に出られないのは本当に心苦しいが、僕には幸いなことにたくさんのかわいくて頼りになる後輩たちがいた。なくなってしまったものを嘆くより、今ある現状に感謝をするべきだ。
六年生になっても自称現役部員を貫く意味は、恐らくそこにある。
最後の最後、卒業直前に竹刀を置く日まで、とにかく頑張って、失敗して、また頑張るを繰り返す。その中で、ラストイヤーの来年こそ一花咲かせてやろうじゃないか。
それが、僕の導き出した結論である。
『千両役者ここに在り』5年秋- うえの
2020/05/19 (Tue) 20:44:06
座っている僕らの目線の高さから竹刀が消えた。二本の竹刀は頭上に高々と掲げられゆらゆらと動いていた。
左諸手上段対右諸手上段。
興味深そうな眼差しを送る者、「え、まじ?」と驚嘆に目を見開く者さまざまだったが、僕らはそれが篠崎の立派な戦法であるということを知っていた。
イマイチ様相をイメージできない方は日本剣道形の一本目を想像して頂きたい。あれだ。篠﨑が上段に対してその作戦を発見したのは去年の合宿のことだった。
東医体で対戦する予定だった山形大学に上段がいるという情報を掴み、全員対上段の練習をしたのだが、その時篠﨑が「形であるくらいだからいけるんじゃないですか」と繰り出したのがこの構えだったのだ。そんなわけあるかいまたザキが変なこと始めやがったと誰しもが思っていたが、彼は部内で唯一上段に対して二本勝ちを記録したのだ。以降、今年の春関などでも上段と当たった際はあの構えを取り、見事に二本勝ちを収めている。
あの構えは篠﨑の対上段必勝策なのである。

篠﨑が籠手を打ち、横山は腕を下げる。横山が籠手を打ち、篠﨑が竹刀を倒す。先ほどまで二本負け2回が嘘のような堂々たる試合だった。
そして横山が左片手面を繰り出すと、篠﨑はそれを引いてかわし、がら空きの面に上段から竹刀を思い切り叩き込んだ。

僕の右で伏し目がちに外した面を整えていた田中先輩が、電気が流れたように体をびくつかせ、右にいた堀と林田は歓声を上げながら膝立ちになって拍手をしていた。背後の小鳥や安孫子、監督までが声を上げていた。
「面あり」
勿論僕も膝立ちで主将を称えたのである。時間にしておよそ開始30秒のことであった。

二本目、の令がかかる。二本目、とってくれ。懇願する。たとえ日大医対東海が引き分けになったとしても日大医が決勝トーナメントに進出できるかはわからない。だとしても、望みを繋いでくれ。僕は無責任に応援することしかできない。今の主将は一本取られることすら許されない状況だった。

また相手の面打ちを抜いた篠﨑が相手の面を叩くと、先鋒から中堅までの3人が膝立ちで篠崎を指しながら歓声を上げる。堀は絶えず常に篠﨑に言葉を送っていた。試合場で戦うのは篠﨑一人だが、それは決して孤独な戦いではない。みんながチームへの、ひいては篠崎への思いを抱きつつ、それを受けて主将は試合をしていた。
横山もさすがに相上段の経験はあっても右諸手上段は初めてだったのだろう。どうにか崩そうと揺さぶりをかける。篠﨑はその揺さぶりに全く応じることなく、あくまでマイペースに前へと詰める。お互いが探り合い、打つ時間が少なくなった。その緊張感に鼓動が早くなるのを感じた。
そして最初の一本から一分が経過しようかというとき、今度は篠﨑が誘うようにして竹刀を動かした。すると横山は鍔ぜりに持ち込ませようと竹刀を下ろしたのである。あ、と思うのと横山の面からこの日一番の破裂音がしたのはほぼ同時だった。
「面あり」
僕は今まで体験したことのないほど大きな歓声の渦の中にいた。どこを見渡しても全員が身を乗り出し、膝立ちで手を打ち鳴らし、上半身だけでその溢れんばかりの喜びを爆発させていた。
日大医剣道部が主将の腕でひとつになった紛れもない瞬間だった。



これが、このチームでの最後の試合になったのである。
『現実は小説より…』5年秋- うえの
2020/05/18 (Mon) 17:54:37
最終戦。
勝てば決勝トーナメント進出、負ければ敗退。
非常にわかりやすい状況で僕たちが対するは全く同じ状況の東海大学だった。
緊張感が高ぶる中、オーダーが貼り出される。

日大医 ― 東海大
堀   ―  高木
林田  ―  大西
上野  ―  遠藤
田中  ―  飯田
篠﨑  ―  横山

「最後はもうこれで行きます」
篠﨑主将が示したのは、大会の一か月も前から「オーダーどうしよう」と頭を悩ませた結果導きだした初戦のオーダーそのものだった。
堀が分ける。林田が一本取られる。さぁ、試合は良くない方へと動き出した。
自分は、、、。
「上野」
面を付けて林田の試合を見守る中、僕の背中を叩いたのは、入学以来一緒に試合に出続けてきた唯一の人だった。
「調子良い時のお前ならマジで全然勝てる相手だと思うぞ」
僕の相手は、その年の東医体の個人戦で優勝した選手だった。
「だから大丈夫。お前ならなんとかなる」
僕の試合を、僕の剣道を常に一番近くで見ていてくれたのはこの人だった。オフの間も二人で稽古をして、30分以上地稽古をしたことだって何度もある。入学してから今日に至るまで、最も多く共に剣道をしてきたのはこの人だった。
そんな人が言うんだから、間違いない。
「ありがとうございます。頑張ってきます」
これが先輩との最後の試合になって良いはずがない。

試合直前の僕には大切にしているルーティーンがある。
試合場に入るとき、まずは籠手を握り締めて左肩を叩く。その時は今までの自分の努力と、苦しかった時、頑張ったときを思い浮かべる。続いて右肩を叩く。その時はお世話になった人や、いま試合で結果を出すことで喜んでくれる人の顔を思い浮かべる。そして最後、突き垂れを叩くと、それらがひとつになって僕の集中力は極限まで昂る。

試合が始まった。開始とともに僕は胴を放った。やや浅いか。ただがら空きの胴を捉えられた。悪くはない。すぐさま面を放ち、引き面、また面を放つと面布団の甲高い良い音がした。いける。勝てる。そう直感した。

尾前や松山の試合で勇気をもらった。
林田には引き技を、堀には対上段を教えてもらった。林田は実習終わりの疲労困憊な時にも関わらず懇切丁寧に教えてくれた。
僕が試合に出ることで補欠になって試合に出れなくなった小鳥と魚本がどれだけ剣道が好きでどれだけ努力をしてきたかを、僕は二人を近い位置で見てきたから知っている。
辛い思いばかりしてきた篠﨑が後から主将生活を振り返ったとき、「ろくなことなかったけど、それでも、最後の大会では上位に進出して結果残せたんだよなぁ」と思わせてあげたい。
5年という月日の中で、先輩という枠を超えてお世話になりっぱなしでろくに返せてもない田中先輩への恩を、最後に良い舞台で試合をさせることで返したい。
試合がないのに応援に来てくれた中尾、安孫子、大井、島津、武田、小島、松山に「応援来てよかったです」と思わせるくらいの良いものを見せてあげたい。
僕はこの7人と、そして応援に来てくれた仲間のために試合をする。それらが僕の背中を押してくれた。
僕は僕のためではなく、日大医剣道部のために勝つ。先輩後輩への恩を返し、同期の無念に報いる為には、ここで僕が勝てば良い。それだけで全てが叶う。
「勝負あり」


日大医 ― 東海大
堀   ―  高木
林田  ―メ 大西
上野  ―メコ遠藤

これが小説なら結果は違ったのだろうが、現実はそううまくはいかないのである。

田中先輩は引き面をとったのだが、残心不十分と見なされ取り消しを食らってしまった。
時間ぎりぎりに面をとったものの、チームは大将篠﨑が2本勝ちしなければ負け、というものだった。少なくともチームの勝ちはもう消えた。最善の場合でも引き分けである。
終わりの時が、背後で足音を立てながら近づいてくるのを感じた。

大将篠﨑が、試合場に入る。
自分が2本取らなければチームは敗退。主将生活も終わる。この日、篠﨑は出場2試合で2本負け2回と奮わなかった。いかに何があっても平常心を保ってきたこの男も、この日は多少の堅さが見られた。まぁ、この男に関しては足が痛いだけで何も考えていない可能性の方が高そうだが。

「始め」
相手の横山が竹刀を振りかざし上段の構えを取ると、篠﨑は初太刀で逆胴を放った。それが外れ、間合いが離れた時だった。会場がざわめく。

篠﨑が右諸手上段の構えをとったのだ。

来たな。僕は千両役者が現れたことに胸を躍らせる観衆のような目で主将を見た。
『宿命の対決』5年秋- うえの
2020/05/17 (Sun) 21:07:03
三回戦、迎え撃つは慶応である。

日大医 ―  慶應
堀   ―  保住
林田  ―  藤村
上野  ―  平
小鳥  ―  佐藤
田中  ―  小山

2年前の秋関、あの時対戦した慶應で今もレギュラーとして残っていたのは平のみであった。
そしてその時、彼は次鋒として出場した僕と試合をした。結果は僕の籠手面と出籠手が決まって2本勝ちであった。あれから不思議と平とは対戦することが多かった。勝った負けたを繰り返しつつ、対戦成績は恐らく五分といったところだろうか。
ホワイトボードに掲げられた、“上野ー平”の組み合わせを見つつ、僕はそんなことを考えていた。っていうか何で毎度毎度日大医と慶応が試合すると俺は平と試合をしなければならないんだ。かれこれ僕の記憶にあるだけで4回日大医と慶応は試合をして、その度に次鋒、中堅、大将、中堅と場所がどこだろうが絶対に僕は平との試合になる。慶応に他の部員はいないのだろうか。
そしてふと、気付く。今日の試合場は、2年前日大医が慶応にいわゆる“下剋上”を果たしたあの場所と、全く同じ場所だった。あの時主将だった自分は幹部を退き、僕の後に主将になった男がもう幹部を退こうとしている。あの時1年生だった平は慶應のエースになり、次期主将になるらしい。立場も学年も変わってしまった。だがそれでも時を経て、やはり僕はまた平と試合をすることになった。
僕はこの男に勝たなければならない。それは恐らく何年経っても変わらない。

堀が籠手を取り、林田が面2本を取って良い流れで僕に回ってきた。
僕は平との勝負を楽しんでいた。赤白こそ昔と反対だったが、油断すれば即座に打たれるであろう危機感と背中合わせの中で自分の技を出していくこの感覚が当時を思い出させた。
そして僕が得意とする攻めのパターンを出していき、相面になった。
「面あり」
良い感触だった。よかった、この日初めての一本だ。一本があるのとないのとでは大いに心の持ち用が変わる。俺が勝てば日大医3勝で終わりだな。そう思って旗を見渡した。
入っていたのは平の面だった。
え。思わず力が抜け、固まる。不意に剣先が床に触れカチャリと空しい音が響いた、気がした。見ると堀や篠﨑も僕と同じように目を見開いたまま固まっていた。
そうだ、そういえば2年前の試合で最初に入った面、あれも相面だった。あの時はほぼ同時にお互いがお互いの面を捉え、僕に旗が上がった。そして今も、ほぼ同時にお互いの面を捉えていた。先に当たった感覚こそあったが、平の方が中心を取った上で面を捉えていた。まさかここで2年前の逆が起こるとは、、、。
そして2本目、僕が取られたのは2年前の僕が取ったのと同じく、出籠手だった。

足が限界に達した篠﨑の代打で起用された小鳥が引き分け、大将戦。
もし田中先輩が一本負けすれば引き分け、二本負けすれば負けだった。のだが、それは杞憂に終わった。
日大医 ―  慶應
堀 コ ―  保住
林田メメ―  藤村
上野  ―メコ平
小鳥  ―  佐藤
田中コメ―  小山

田中先輩は初太刀を決めると、すかさず引き面を決めた。わずか30秒のことであった。
さて、毎度毎度チームがもし負ければ戦犯レベルの大仕事をしている僕だが、内心はまさしく平常心だった。みんながカバーしてくれていたし、僕自身調子はどちらかといえば良い方だった。
平の試合での面もどちらに上がってもおかしくはなかった。感覚は良好であり、次の試合次の試合と逐一気持ちをリセットして切り換えることができていた。

ここまでチームは2勝1敗。あと1勝で決勝進出である。
僕の見立ててでは昭和が抜け確、日医との争いになると考えていたので、日医に勝った僕らは限りなく決勝に近い。そう思っていた。
「1,2、、、あれ」
「どしたの?」
「日医1勝2敗です。代わりに僕らと同じく2勝しているところがあって、、、」
「え、どこ?」
「東海です」
最終戦、東海との試合はそれこそ最後の大一番となった。
『次期主将による大将戦』5年秋- うえの
2020/05/16 (Sat) 19:11:19
2回戦は日医大戦だった。オーダーは多少変わり、

日大医 ― 昭和医
堀   ―  平原
上野  ―  宗像
篠﨑  ―  島
田中  ―  松本
林田  ―  田中

となった。
このオーダーを組む際には篠﨑は終始表情を歪めていた。僕はその様にいつしかの秋関の田中主将を重ねていた。結局次鋒林田でオーバーキルになるより上野で取ってもらって林田は強い人に当てようという点や田中先輩と弟の戦績から考えて兄弟対決はやめようという結論からこのようなオーダーになった。
堀が取って取られて引き分けで僕の番が回ってきた。僕は基本的に次鋒というポジションが一番好きだし性にあっている。先鋒が負けてくれば「ここで勝ったらおいしいなー」と思えるし、先鋒が勝ってくれば「俺もいきますか」と思える。技のレパートリーとしても次鋒を散らすのは得意としていたし過去の戦績も良かった。ただ、苦手な相手のパターンが次鋒において一つだけある。
3年生の時の東医体で散々苦しんだ、引き分け狙いの相手、である。
「引き分け!」
しでかしたほんとにもうマジでやらかした。序盤は悪くなかったのだが後半はもう焦って攻めも工夫も何もないただ打突を繰り広げるだけの時間になってしまった。あーやべぇ立場ねぇ、、、。そう思っていると篠﨑もものの二振りで負けてしまった。
日医が残すは守りの堅い松本、エース田中弟である。日大医は田中先輩林田の両エースを残していたが、田中先輩は東医体で松本に負けたばかりであった。この二人のうちどちらかが負ければ、日大医は負ける。日大医名物絶体絶命のピンチである。

田中先輩はやはり苦戦を強いられていた。相手はあまり打ってこなかったが、鍔ぜりで先輩が離れてもついてきたり離れる前に打ってきたりと徹底して取られない剣道をしてきた。体感で時間が一分を過ぎる。田中先輩は一度相手を押し出しはしたもの、技は決まらず二分を過ぎる。ヤバい。そんなとき、相手が引き技を打ってその勢いで試合場の線から出てくれたのだ。反則二回。一本。とんだ幸運であった。これでチーム的には本数で1‐2。林田が1本勝ち以上で勝利という状態になった。依然、田中弟相手に引き分けだと負けてしまう。引き分けですらなかなか大変な注文だが、林田は大丈夫だろうか、、、。そう思っていると、二本目、の声から田中先輩がこの5年間で試合中に見せてこなかった動きをし、旗が示し合わされたように3本上がった。田中良磨、人生初逆胴をこの土壇場で決めて魅せたのである。

勝者数得本数ともにまったくの同数。僕たちは弱冠2年生の若者にそのすべてを託す形になった。
始めの声とともに林田は前へと踏み出した。グイグイ攻めて、相手はそれを嫌がって引く。果敢に打って出る林田。鍔ぜりから無駄のない動きで引き技を打つ田中弟。勝負はいつ、どっちに傾いてもおかしくないほどにお互いがお互いの技をぶつけ合うものになった。攻防が繰り広げられる中、僕らの位置から一番遠い、コートの対角線上に相手を追い詰めると、林田は引き面を繰り出した。そしてそれと同時に、田中弟は下がる林田にすかさず面を繰り出した。あ、ヤバい。

「胴あり」
日大医から大歓声が上がる。面を打ってきた相手に、林田は一瞬たりとも居着かず、すぐさま竹刀を持ち替えるとヒラリと舞い、返し胴を決めたのだ。
舞う。この言葉が合致するほどに美しい一本だった。
その後相手の猛攻が始まった。詰めてくる林田に撓るような連続技、パワーを駆使した引き技に飛距離抜群の面。両者一度も居着いて防御した場面はなかった。ただ一度を除いては。
「面あり」
今度は田中弟に旗が上がる。これで勝負。天下分け目の戦いである。どんな状況でも変わらず自ら詰める林田。そして決着の時は訪れた。完全に崩され、無防備な状態に落ち込まれた一打だった。
「面あり」
上がった旗は赤。
それを見て割れんばかりの歓声が上がったのは―――僕たち日大医だった。実習でろくに稽古できていない中チームの命運を一手に受けた次期主将の渾身の一打だった。

「でも先輩、林田が最後に打った面、僕のキモ面part6に似ているような気が」
「僕も昔キモ面っぽい技決めたことあるんだけどさ、なんか動画で見るとそんなにキモくないんだよね」
「じゃあ僕のも動画で見ればそんなに」
「いやキモいよ。どう見ても」
「えぇ、、、。でも同じ技じゃないですか」
「俺思うんだけど、軌道がキモいというよりは、その、上野が打つからキモいというか」
「それ僕どうしたらいいんですか!」
「頑張れ」
「えぇ、、、」
とにもかくにも、どうにか日大医1勝1敗である。
『徹底対策』5年秋- うえの
2020/05/15 (Fri) 18:22:46
秋関の直前、僕は出場予定の7人を食事に誘った。
この大会で篠﨑は主将を全うし、田中先輩は引退することになっていた。堀、小鳥、林田、篠﨑、上野、魚本、田中先輩。ずいぶん学年的にうまく散ったものだなと思いながら、僕はこの7人と過ごす残り少ない時間を楽しもうと決めたのだった。秋関の前日田中先輩と二人で温泉に行き、いろんろな話をして翌朝、僕は東京医科大学の校舎の前に立っていた。
いつ見ても荘厳だなと思った。

僕らの秋関でのリーグはというと、日大医、昭和医、慶應、東海、日医の5校のうち、3校が敗退という激戦区だった。どこが突破してもおかしくはない。昨年の秋関でくじ運の良かった中尾を今年の抽選でも投入したのだが、どうやら去年で己の運のすべてを使い果たしてしまったようだ。他のリーグが全て4校リーグとなっていたことを考えても、どう考えても一番運の悪いところを引いてしまった感がある。どの試合も気が抜けない試合となった。

初戦の相手は、1位抜け本命の昭和大学だった。
僕はこの大会に向け、各校の調査レポートを作成していた。特に昭和大学に関しては情報が少なく対戦したこともなかった山口を除き、ほぼ全員の癖やタイプをまとめ上げて部員に配っていた。
そんな僕があらゆる方面から集めたデータによって導き出した予想オーダーは先鋒から清水山口高木篠原井原だった。

日大医のオーダーは堀林田上野田中篠崎。
中堅の自分は恐らく上段の高木さんとあたるだろう。そう踏んでいた。
ちなむと高木さんは僕が主将時代に書いていた日記をいつも読んで下さっていたらしく、ある錬成会で突然声をかけていただいてから親交があり、連合チームに参加して頂いたり二人で温泉に行かせて頂いたりした。驚異的なまでの人格者で、とてもお世話になっていた。そして高木さんの剣道の強さや特殊性も承知していた。そんな高木さんと僕は対戦しなければならない。そして僕は、秋関2週間前から堀に対上段の対策を乞い、YouTubeに上がっている高木さんの動画を毎朝見て、田中先輩の家のテレビで高木さんの動画を流して小鳥と3人で対応策の会議をしたりした。
その協力もあって、試合までには高木さんの動きのイメージや対応策、一連の作戦も固まっていた。堀と高木さんではタイプも違うし、対策も思い付きのものが多いからうまくいくかはわからないが、これだけ対策を取っておいたら引き分けに持ち込むことくらいならできるだろう。

日大医 ― 昭和医
堀   ―  清水
林田  ―  山口
上野  ―  篠原
田中  ―  高木
篠﨑  ―  井原

「話が変わってきてるぞ」
田中先輩が腕を組みながら言った。
嗚呼、僕の2週間、、、。

そうも言ってはいられず試合は始まった。先鋒は、両チームのスピード自慢の試合とあってけたたましい試合になった。それでもどちらも崩れることはなく、引き分けとなった。
次鋒は双方攻めが強い者同士の試合となり、見応えのある試合だったがこれも引き分けだった。
そして中堅の僕の試合。調子は悪くなく、普段よりクリアな状態で試合をすることができたのだがまだこの試合でどちらにも一本も入っていないという流れを壊してしまうことへの恐怖が生じ、無難な技を出すにとどまってしまった。相手も似たような感覚だったのかこの試合も引き分けとなった。
副将の先輩も似たような感覚だったのかもしれない。それに加え、高木さんの警戒ポイントを一番近くで僕から聞いていた先輩は警戒心が一層強くなってしまったような気もする。これも引き分け。
そして迎えた大将戦。一足一刀からの攻防なら井原と相性は悪くないはずの篠崎だったが、井原には最大の武器があった。高校時代を共に過ごした林田も試合前も言っていた。「井原先輩の引き技はヤバいです」それに対し、「3分間くっつかないで試合するから大丈夫」そう言っていた篠﨑だがそんなことできるはずもなく、ガッツリ引き面を取られてこの試合を落としてしまったのである。

日大医名物ここからひとつも落とせない状態、この日早くも発動である。
『晩酌』5年秋- うえの
2020/05/14 (Thu) 20:23:01
レモンサワーを流し込む。旨いなぁ。僕はバラエティ番組を見ながらソファに足を投げ出し、それを飲み干す。
僕には決めていることがある。それは“晩酌は本当に嬉しいことがあった日だけする”ということだ。
今までの人生でそれは5回ほどある。
主将に就任して初めての大会で慶應に勝った日、観戦しに行った試合で阪神タイガースが大勝利を収めた日、看護大会の応援に行って帰りに尾前といろんな話をした日、春関でベスト16になった日、彼女ができた日の5回である。そして今が6度目だった。やはり酒は楽しく飲むのが一番だ。
11月、秋関まで一週間前の日曜日のことであった。

東医体での試合を終え、秋関へと向かって稽古をしていた中、10月に看護大会と女子戦が行われた。僕は尾前が1年生の時に出場した女子戦以降、応援が一人の時もあったが毎回女子の試合の応援に駆け付けていた。
尾前たちの試合は凄い。もちろん結果も常々入賞レベルのものを叩きだしてくるので凄いのだが、彼女たちの凄みはそれに留まらない。応援する人間に勇気をくれるのだ。
例えば尾前は、団体戦で結果を要求された時には必ずその通りの働きをしてみせた。豪快なその試合は見る者の足を止めさせ、魅了する。プレッシャーがかかるほどに彼女は本領を発揮する。大事な試合の際には試合場に入る前に自陣の仲間を見て自らを鼓舞する。その困難に立ち向かい戦うさまがかっこいいのだ。
松山の剣道を一言で表すなら“我慢”だと僕は思う。彼女ほど溜めと我慢ができる選手を僕はあまり見たことがない。普段はおちゃらけいて地稽古で相手に一本取られるとその場で「あひゃひゃ」と笑い出すのだが、試合の際には打って変わって鋭い眼光で相手を引き出す。一年生ながら大将に抜擢され、次々と旗を自分に掲げさせるさまは見事だった。
武田は初心者なので技術面に関しては相手に劣る場合が多いのだが、彼女は人一倍負けず嫌いでそれに関しては相手に引けをとらない。あるときは武田が一本でも取られたら負けるという状況で3分間粘ってみせたこともあった。その様子は2年生の時自らを捨てて粘りに粘ってチームに勝利をもたらした魚本さながらだった。、、、魚本引き合いに出したら褒めてる感でないか。ごめん武田。
女子ではないが、看護大会では小島の試合もすごかった。前期は正直目立った活躍をしていなかった小島だが、夏あたりから「この部活大好き」と度々口にするようになって以降看護大会に向けて状態を上げていくと、一気に個人戦3位まで駆け上がってみせたのだ。看護男子という試合の機会に恵まれない状況下、親も見ている前で結果を出した彼の男意義は素晴らしかった。
総じて、彼女たちは互いに支え合いながらも各々が役割を全うし、どんな窮地にも立ち向かっていく、そんな光景を見ていると心の奥底が揺さぶられるような感覚に陥るのだ。
特に僕はそれを10月の看護大会で強く感じていた。
それは、当時の僕の剣道的な状況も相まっていたように思う。

若干話が逸れるがこの頃の僕はというと、前期の成績が小学校以来の学年順位3桁を記録し、危機感に火がついてQB(国家試験用の問題集)を1日200ページ進めてノートにまとめ、それを暗記するということをひたすらに行っていた。50日で全QBを1周させるために平均して夜中の3時まで勉強をして、朝の5時に起きて勉強をしていた。区切りが上手くつけられず、何でもない日に徹夜したこともあった。そんな中でも勿論部活は皆勤である。1週間の中で睡眠時間より剣道をやっている時間の方が長かったなんて週もあった。これはこれで楽しい生活ではあったが、絶対もうやりたくない。

話を戻すと、剣道的には主将を篠﨑に譲ったタイミングあたりで騙し騙しやっていた左手の痛みが限界に達し、無意識のうちに右手に頼った剣道になってしまい僕の全盛期は終了を告げた。
右手が出れば左手が浮き、腰が残る。通常の面では打ちが弱くなるので右手で回す面に頼らざるを得なくなり、得意だった出籠手も形が崩れ始め上手く決まらなくなった。悪いことばかりではなく、なぜか突きが得意技になってそこそこの成功率を持ち始めたり、林田命名の僕の必殺技“キモ面”の開発が次々進み、“日本キモ面形”はその10まで完成されることとなったりもしたのだが、それでも失ったものの方が大きく、毎回荒稼ぎしていた25校戦での一本の本数は激減、春関でも2回戦で負け、練習試合でも良い成績が残せなくなり、東医体では瞬間最大風速的な活躍はできたもののトータルではイマイチな結果となっていた。
結果はもちろんのこと、自分でも動きが悪くイメージと違う打ちをしていることを常々自覚していた。

最も大きな点は、自分が主将の頃まで持ち合わせていた“チームの主力としての自負”が消え失せたことだった。
今や稽古で左右を見渡せば林田、堀、小鳥、小島、尾前、松山、篠﨑、田中先輩、、、僕より強い人しかいない。僕が主力扱いされていた時代はもう終わったんだ、そう突きつけられているような気がしていた。
また、今まで酷使してきた身体の衰えも痛感していた。23歳の若さで何を言っているのかと自分でも思うが、今まで無理をしてきた代償は確実に体の各所に表れていた。左手の指に関してはもはや変形してしまい、握力を司る薬指は曲げきることも伸ばしきることもできなくなった。手足にサポーターを最低でも4ヶ所に常時装着しなければ剣道はできなくなっていた。120%の力を出してようやく他者と良い勝負になる僕にとっては致命的な状況である。
そして、いつしか思うように使えない体が先か精神的な問題が先か、僕は勝って打つ感覚を失っていった。たまに一本入ったとしても、納得できるものは少なかった。

みんな強いなぁ。俺も頑張らないとなぁ。でも今の俺、全然ダメだからなぁ。昔の俺だったらいい感じに勝負できたのかな。そんなわけないかなぁ。そもそも俺もともとそんなに実力なかったのかなぁ。
稽古や試合で後輩たちの活躍を頼もしく思う一方で、どんどん自分が弱くなっていっているような気がしていた。半年近くの間、日々の稽古ごとにその思いは大きくなっていくばかりだった。
いわば完全に自信を失っていたのである。もちろんそんなこと誰にも言わなかったし気付かれたくもなかったので表出させないようにしていたが、僕の中では確固たる変化だった。

そんな折に見たのが尾前たちの試合だった。彼女たちの試合を見ていると、こっちが応援しているのに不思議とこっちが応援されているような気がした。俺だってまだできる。そういう思いがどこからともなくふつふつと沸いてくるのを感じたのだ。
そしてその直後に迎えたのが秋の25校戦である。


25校戦当日、大学では文化祭が行われていたため篠﨑が参加できず、看護部員が午後からしか参加できないことになっていた。
男子は2チームに分けられ、僕は林田、小鳥、堀、小島(午後から)とチームを組むことになった。学年的には5,2,1,1,1である。だが
「先輩、次の相手のオーダー決めようと思うんですけど相手どこですか?」
「横市だよ」
「じゃあ僕カツカレーひとつ」
「いやココイチじゃないから!」
「僕はポークカレーがいいです」
「小鳥痩せろ。カレー屋さんじゃないから」
「オーダー入りまーす。1辛(先鋒)堀、2辛(次鋒)上野先輩、3辛(中堅)小島」
「ココイチ形式で発表するな」
そこに学年差など関係なかった。
そしてその雰囲気に押されてか、僕たちのチームは快進撃を続けた。得本数で言えば林田9本、堀11本、小鳥10本、小島6本(半日)を記録した。そして僕はというと、過去最多の12本を稼ぐことができた。尾前たちの試合を見て、体はともかく心だけは全盛期の頃のような気持ちで試合をすることができた。中には地稽古でも1本も取ったことがない他校の相手に2本勝ちできた試合もあった。
とにかく試合をするのが楽しくて仕方がなかった。早く次の試合がしたいと常々思った。この一年間遠ざかっていた感覚である。試合ごとにイメージと実際の動きのギャップに悲しくなって、気付けば相手も見えなくなり自分との戦いになってしまう、この一年間それの繰り返しだった。でも、本当に良かった。この気持ちはまだ死んでなかったんだ。俺だってまだできるんだ。試合後後輩たちと温泉に行った僕は帰宅するなり冷蔵庫を開き、半年以上前に購入しておいたレモンサワーを手に取ったのだった。
11月、秋関まで一週間前の日曜日のことであった。
『主将期間、終了』3年秋4年春夏秋5年春夏- うえの
2020/05/13 (Wed) 18:48:23
僕が主将だった頃のことはもうこの日記に散々書いてきたのでかいつまんで流したいと思う。

稽古前夜には1‐2時間メニューを考えて翌日魚本に相談し、常軌を逸したキツいメニューもやりつつ月1回他校に出稽古してチームは少しずつ成長していき、秋関で慶應、医療系で昭和に下剋上で勝利した。仕事のことやオーダーのことで主務兼副主将になった魚本や会計になった甲田とは再三喧嘩をしつつ、なんだかんだ部を支えていった。
僕個人としては、この頃が僕の剣道の全盛期で、25校戦ではチーム最多得本数をいつも取っていたし、団体戦でチームに貢献できることも増えてきた。格上の相手にも勝てることが増えてきていたし、医療系大会では初めて代表戦に出場して勝利することができ、翌年の春関では参段以上の部で個人戦ベスト16という入学当時に立てた3つの目標(個人戦ベスト16、団体戦ベスト8、四段取得)のうちの1つを達成することができた。一方でこの頃から左手に神経損傷を起こし、注射を打ちつつ痛みと戦いながらの剣道を強いられることになった。

春には林田尾前という剣道が強くて人間的にも大変素晴らしい()2人が加わり、看護にも葛西小松という1年生マネージャーと2年生マネージャーの島津が加わって、それまで休部扱いになっていた看学剣道部が復活となった。
林田尾前の加入で部活はより明るく、稽古中もメリハリのある雰囲気を保つことができるようになり、この頃長くスランプに陥っていた谷が復活し始め、中尾も日に日に成長を遂げていった。魚本とも喧嘩をすることはなくなり良き相方として部活に身を投じていき、一区切りと言っていた田中先輩も結局毎日稽古に参加し、僕らの幹部体制を見守ってくれていた。
東医体直前に1つ下の学年と大揉めするもののそれも解消し、合宿を経て東医体ではチームで1つとなって戦い、そして予選で敗れた。
僕だけでなくみんなで涙したあの時間こそが僕の主将生活の終焉に相応しい終わり方だったのかもしれない。

政権は篠﨑へと移り、何度も僕や魚本と意見が対立しながらも部活は彼が引っ張り、秋関ではチームが予選4試合で30本の荒稼ぎを記録してベスト16を達成するなど躍進。尾前も看護大会個人戦で3位を記録した。春には医学部の堀、小鳥、大井、成田、北堀、小林、看護の小島、松山、武田の計9人と5年生の上田、内ケ崎が入部し部活は総勢24名となった。一気に盛り上がりを見せた剣道部は稽古を重ねていき、女子戦で尾前と松山が歯学部と合同チームを組んで団体戦3位を見事達成するなど、女子の活躍が目立つ中で男子も入賞や優勝を意識し始めるようなチームになり、東医体では3年ぶりに決勝トーナメント進出を達成した。直後自治医に完敗するも篠崎だけは主将の意地を見せて自治医戦で2本勝ちを記録、最後は支えてもらってありがとうございましたと全員に感謝の念を述べ、その主将生活に幕を下ろした。わけではなく、篠﨑と林田の間の学年に医学部生がいなかったため秋関まで篠﨑政権が続いたのだった。
まぁこの流したところの詳しくは過去の主将日記参照ということで、まとめさせてもらいたいと思う。

この間にあったことというと、他にも安孫子が家中の食材をカビさせてそれを部活のLINEで報告するのでいつしか安孫子家が微生物学研究所と呼ばれるようになったり、中尾と二人でママチャリを駆使して80キロにもわたる旅を敢行したり、10回くらい遊んだ同学の女子に新宿駅で「俺と付き合ってくれない?」と告白をしたところ、“い”を言い終わるかどうか位のところで「絶対ヤダ」と豪快にフラれたり(ぜったいやだ、ではなくぜっっっっっったいやだ、だった)、安孫子がある日突然坊主になって部活に来てみんなから「何の悪さしたの?」と言われていたり、サバゲーをみんなでやる日に車を出してくれることになっていた田中先輩が集合時間の3時間後に起床したり、安孫子が久々に来た部活でやけに振りが速かったので「素振りとかしてるんだ」と言ったら「これ小学生の女子用の竹刀です」と言われ安孫子おおおぉおおとなったり、八木さんが“その人の自称の悪口を言い当てる”というとんでもない友情破壊ゲームを買ってきたり、田中先輩と先輩の同学の人と入部したての林田の4人でキャンプに行ったり、谷のスランプ脱出策を二人で興じたり、先輩だった八木さんがこの間に同級生となり勢い余って後輩となってしまったり、僕の“なんかよくわからないけど決まる謎の面”を林田が「ヤバいです。キモすぎます。この面はキモ面です」と命名してくれたり、田中先輩が“日大医は2回戦に行ければ奇跡”と言われてきた板橋区大会で準優勝を果たしたり、他校の友人が急激に増えて遊んでくれたり相談をしてくれる同期や後輩が増えたり、その結果稽古会を定期主催することになったり、色々な錬成会に他校の主力をかき集めて結成された“チーム上野”で参戦したり、主将日記を書き始めてそれを読んで僕に連絡をしてくれる人が出てきたり、その中でも横市の2学年上の先輩と仲良くなってその人と稽古をしに横市に出稽古をした結果今現在1年以上付き合いが続いている彼女と出会うことになったり、その彼女と付き合ったことを魚本にSNSで暴露されて大炎上したり、僕が魚本に彼女ができたことをSNSで暴露したのにあんまり炎上しなかったり、1年生が入部してきて道場が定員オーバーを迎えて窮屈になったりと、この期間は濃度が桁違いにいろんなことがあったが、それはここでは割愛とする。
『兄弟対決』3年夏- うえの
2020/05/12 (Tue) 20:52:49
昼の休憩を挟んで午後、残った団体戦の最後の試合が行われた。
最後の相手は日本医科大学との試合である。日本医科大学ももはや決勝トーナメント進出の可能性は絶たれており、いわばこれは消化試合となった。
そしてその試合前、せっかくならやっちゃいますかと田中主将と日医の人が話していた。これはもしかして、、、。

日大医 ― 日医大
魚本  ―  竹吉
上野  ―  宗像
八木  ―  濱口
6年  ―  高橋
中尾  ―  西荒井
篠﨑  ―  島
田中  ―  田中

死にかけの谷さんに代わって補欠の中尾が投入され、三将に配置された。
そして注目すべきは大将戦。田中対決。これは偶然ではない。日医には田中先輩の弟が在籍しているのだ。東医体という大舞台(の消化試合)で、夢の兄弟対決ここに実現!である。
試合はなんと前5人が全員0-0の引き分けで進んでいった。
そしてこの日、パワプロでいうなら調子がピンク色(パワプロで(以下同文))の篠﨑はここでも面を先取してみせた。なおも攻める篠﨑だったが、相手の選手もレベルが高く、やがて強烈な逆胴を食らってしまった。股間に。
「やめっ」
試合が中断し、篠﨑が悶える。あぁ、可哀そうに、、、。結局試合はそのまま篠﨑が逃げ切り、玉を斬らせて骨を断つ戦法(不適切)で無事勝利を勝ち取ったのである。

そして始まりました兄弟対決。開始直後から豪快な打ち合いが繰り広げられる。おぉ、おおぉと歓声が敵からも味方からも上がる。兄弟同士の意地と技術のぶつかり合い。今僕たちは凄いものを見させられているのかもしれない。そう思いつつ、当の試合者はその勝負を楽しんでいるようでもあった。「え、なに兄弟なの?」「おーすげー」これが最後の試合とあって、観客が増えていくのを背中で感じていた。これは凄い試合だ。凄い、のだが。僕は魚本に声をかける。
「いまどっち田中先輩?手前?」
「わからん」
そう、動きが同等のスピードで速いうえ、同じような体型、同じような面型、同じような動き。そして極めつけは垂ネームが“日大医田中”と“日医大田中”だからもう判別のしようがない。篠﨑はあきらめてどっちかが何か打ったら拍手をするという所業に走っていた。
開始1分、打ち合いの中で見事な出籠手が決まった。日大医と日医大の応援総勢12名が拍手を送ると、僕は旗の色を確認する。あ、相手の一本じゃん。同じことに気づいたのか、日大医から「え、最初から拍手なんてしてませんよ?」的なごまかしを含みつつ拍手がやむ。
その後、“平成の竹刀飛ばし職人”の異名を持つ田中先輩(僕が勝手に呼んでいた)が、名人芸を発揮して弟の竹刀を2回飛ばして1-1としたものの、最後は弟が放った突きに田中先輩が文字通り倒されて決着がついたのだった。突きが決まったときはその幕切れの豪傑さに、12人全員が拍手を忘れるという先ほどとは真逆の反応となった。

団体戦を最下位で終えた日大医だったが翌日の個人戦、東医体で八木さん、中尾、甲田が公式戦初勝利を決め、僕も3回戦、八木さんも3回戦まで進出した。良磨キングダムは着実に部員を育て上げたのである。
かくして、主将の座は田中先輩から僕へと受け継がれたのであった。
主将上野竜治ここに誕生である。
『訓示』3年夏- うえの
2020/05/11 (Mon) 21:32:34
2回戦は山梨大学相手だった。先鋒魚本が分けて帰ってくると、僕の試合が始まった。
僕の相手は先ほどほどではないが、またしても引き分け狙いの相手だった。引き分け狙いの相手が来たらこうしようという考えは僕の中にあったのだが、この相手に関してはそれに加えた出籠手に苦戦させられた。僕の籠手から一度音がしたものの旗は上がらず、肝を冷やした。相手の胴からも音はさせたが旗は上がらず、もう今の僕の胴の技量では無理だなと胴を捨てることにしたのだが、当時胴で一本を稼いでいた自分は自分の剣道を見失い、結局引き分けとなってしまったのだ。所謂自滅である。

五将の八木さんは上段を愛し、上段に愛された男にでもなったのか再び上段との試合になったもののここも耐えた。田中先輩も先ほどの名誉挽回をするかのごとく一本勝ちを収めた。篠﨑はまたも早々に一本を決めてみせた。そして、

日大医 ― 山梨大
魚本  ―  石川
上野  ―  田中
八木  ―  須貝
6年  ― メ谷垣
田中コ ―  吉田
篠﨑メ ―  関山
谷   ―コド久保川

たった2試合目にして、日大医剣道部終焉である。

面を抱えて立ち上がり、誰が言うでもなく部員は組み合わせ表に吸い寄せられるようにして集合していた。すがりつくように色々なパターンを割り出し、本当にもう勝ち上がる可能性はないのかと各々が思案を巡らせていた。だが、もう結果を悟っていた僕は組み合わせ表に集まる部員を尻目に試合会場を出た。どこかで一人になって頭を整理したかった。
なんでいつもこうなるのかという叱責、田中主将の試合が終わったという喪失感、何もできない自分への自己嫌悪、田中先輩に何もしてあげられなかった自分への、、、あらゆる考えが脳内で渦を巻いて、僕の心に黒い液を滴らせていく。そしてそれが心の容量を超えた時と、人目につかない場所を見つけたのは同じタイミングだった。廊下の隅で壁に向かい、膝を抱えて涙を流した。取り返しのつかない事態とはこのことで、もし人生で一度だけ時間を戻す能力が使えるとしたら僕は迷うことなく今使ってしまいたい。そう思っていた。
数分が経過し、それでも哀しみの波が引かなかったとき、背後から誰かが歩いてくる気配がした。振り返ることすら今は面倒で、まして腫らした目などどこぞの誰かに見られたくない。そう思っていると背中に大きな衝撃が走った。蹴られたんだなと思った。衝撃の度合いからなかなか全力で蹴られたようだが、痛みは全くなく、どこか温かみすら感じられた。
「おい」
声の主は言った。「お」は声が震え、上ずり、ぎりぎり聞き取れる範囲だった。「い」はもはや漏れ出た息のようでもあった。
「泣くなよ」
いやいや、他人を慰めている場合ではないでしょうに。「一戦一戦目の前の相手に集中していこう。みんながやれるべきことをやれば決勝トーナメントは絶対いけるはずだから」普段円陣であまり喋らない貴方が熱弁を奮った。「20年近くやってきた剣道人生の節目になると思う」と試合前に話していた。1年半八木さんと部活を支え続けて、キツい稽古なんてほとんどなかった日大医剣道部のメニューも改革して合宿もして、自分自身は試験前日だろうが部活を一回も休まなかった。そんな貴方の無念の方が計り知れないでしょうに。
僕は念仏のようにひたすら謝り続けた。
思えば貴方のメニューは本当にきつかったけど、早く代変わりしないかなと思ったことは一瞬たりともなかった。それは貴方が誰よりもこの剣道部を大事にして部員のことを慮ってきたからだったんだとその時になって気づいた。僕はそんな貴方の力になれなかったことが、本当に無念だった。
あの空間を満たすのは2人の涙だけで、他には何もなかった。

何より部活を大事にし、自らは姿勢で示し、部活を引っ張る。僕もそんな主将であろうと思った。
『旗色』3年夏- うえの
2020/05/10 (Sun) 18:43:03
翌朝、ホテルのある松本駅からタクシーに乗り、僕たちは信州大学へと降り立った。
東医体開幕である。今回の試合は良磨キングダムのファイナルマッチであり、僕が入部した当時の幹部だった先輩たちの最後の東医体だった。僕の調子はというと、依然として絶不調でパワプロでいうなら間違いなく紫マークだった(パワプロで言うな)。だが、戦場に出る武士が命の取り合いをするのと同様、試合場の相手は己のすべてを懸けて僕と対峙してくる。よって試合場に立ってしまえば調子がどうの怪我がどうのと言っていられないのが宿命である。試合に出るということはそういうことだ。
今回の僕のポジションは、公式戦では初となる次鋒だった。いわば今まで以上に一本を取ってくることを期待された位置で、確実な勝利を収めなければならない位置である。
初戦の相手は旭川大学だった。

日大医 ― 旭川大
魚本  ―  菅
上野  ―  大村
八木  ―  平田
6年  ―  泉澤
田中  ―  別府
篠﨑  ―  三好
谷   ―  伊佐

パンフレットと張り出されたオーダーを見比べながら田中先輩が呟いた。
「後ろ3人が四段か、、、」
「でも、先輩、ここ」
僕は次鋒の選手の名前を指した。四と参が並ぶ中、その選手のみが弐と書かれていた。
「マジじゃん、頼むぜ」
「そのためのオーダーですから。任せてください」
かくして決戦の火蓋が切って落とされた。

魚本は内心いつ取られるかと思っていたが、開始1分を過ぎるとその心配も徐々に減っていった。去年のように防戦に防戦を重ねて守って逃げてという風ではなく、きちんと互角にやり合った上で打ち合いが織りなされていた。結局3分間は竹刀の打ち合う音しか二人は奏でることしかできず、この試合は引き分けとなった。
魚本とすれ違う形で僕が試合場に入る。今はこの相手の命を、僕の命を懸けて奪う。あとは体が動いてくれることを信じて最善を尽くすのみだ。
試合が始まり、僕は初太刀籠手を放って鍔ぜりをした瞬間に察した。この相手、引き分け狙いか。向こうから仕掛けてくることはあまりないのだが、ひたすら詰めては防御してを繰り返してくる相手だった。やりにくい。やりにくすぎる。1分が経ち2分が経ち、僕のイライラは募るばかりだった。そのイライラが憔悴に変わったとき、ここらへんで変化球を投げておくかと籠手胴を放つと、胴からパシンという良い音がした。よーしとりあえずこれで、、、あれ?僕は副審を視界に捉えたが微動だにしていない。旗すら振っていなかった。「一本も、、、?嘘だろ?」相手への焦りと、旗への焦り。僕はまんまと自滅したのだった。

結局引き分けで試合は終わり五将戦になると始めの声とともに相手は竹刀を頭上へとかざした。上段、、、。八木さん相手に上段、、、。非常にまずい。八木さんが東医体に向けて調子を急激に上げてきて(パワプロでいうなら赤マークくらい(パワプロで言うn))、今年の東医体は初めてスターティングラインナップに名を連ねるようになったほどに実力もついてきていたとはいえ、上段相手の練習なんてほとんどしていないし分が悪すぎる。と思っていたのだが、八木さんはひたすら足を動かし、それを凌いで3分間耐えて見せたのである。幹部として田中主将と一年半もの間部活を支えてきた男の意地を見た瞬間だった。
続く6年生も引き分けになったところで僕はこんな言葉が口を突いて出てしまっていた。
「旗、やっぱり重くない?」
「重い」
隣の魚本も即答だった。普段の試合でなら上がりそうな技はここまで僕らにも相手にも1試合当たり2,3本はあるのに、ここまで審判の手はピクリとも動いていなかった。
まぁでも次は田中先輩である。審判がどうとか、相手がどうとか、そんなの関係なしに戦果を挙げてくる。それが僕の中での田中良磨という剣士だった。

「勝負あり」
しかし、この日初めての旗が上がったのは相手に対してだった。それも二度。言っちゃあなんだが瞬殺である。重い雰囲気の中でエースが二本勝ち、、、。ん?詰んだ?という雰囲気が流れる中、篠﨑は立ち上がるとそのまま面を放ち日大医に初めての旗を掲げさせたのである。
ようやくの歓声と拍手が日大医陣営から上がった。

そのまま篠崎の試合は一本勝ちとなり、大将谷は勝利を要求される形となったのだが、この時谷は合宿や直前の稽古には参加をせず、兼部先の山岳部の活動に参加をしていたところ足を負傷してしまった、という状況だった。ここにも紫マークがもう一人。言わば相手の力量も考慮すれば勝敗が決するのは時間の問題であったとまで言えた。


試合が終わると僕と離れて座っていた6年生、田中先輩、篠﨑も旗について話していた。誤審だのどうのと言うわけではなく、通常と比較すると今日は旗が上がりにくい、それは確からしかったのだが、僕個人としては誰が見ても一本と言われるくらいの技を決めなければならなかった位置にいたにもかかわらずそれが叶わなかったことが情けなかった。次で挽回せねばなるまい。というより、4校リーグで2敗すればそれは敗退を意味する。もう一戦も落とせない戦いがここから続いていくのだ。
『HAPPY BIRTHDAY』3年夏- うえの
2020/05/09 (Sat) 20:50:36
目が覚めると夕食の集合数分前だった。相部屋でどこかに行っていた八木さんに起こされると、僕はロビーに降り、部員たちと合流した。

「あ、ここから歩いて行ける範囲にCocosがある」
日大医剣道部が東医体前日に必ず食べるものは何かと問われれば、それはCocos。絶対にCocosなのである。まぁといってもそれは古来より剣道部に伝わる伝統でもなく、理由は田中先輩が好きなのがCocosだから、以上である。僕が2年生の時の東医体前日、「りょーまくんの食べたいもの食べに行こうよ」と当時5年生の先輩から言われた当時3年生の田中先輩は、「じゃあ僕の車で先導するんでついてきてください」と全員をCocosへいざなったのだ。翌日、「今日は昨日とは違うとこに行こうよ」と言われた田中先輩は、「じゃあ僕の車で先導するんでついてきてください」と全員を昨日のCocosより少し遠いCocosへといざなったのだった。そしてこの日もCocosに夕食が決まり、全員でそれなりの距離をCocosまで歩いた。

Cocosに着くと、表玄関のドアに、“誕生日の人は店員に声をかけてね☆”と書かれた看板が立てかけてあった。おほっ、これは。
全員で大きなテーブルを囲み、正真正銘の誕生日席に座るとメニューを聞き終えた店員に僕は言った。
「あのすみません僕今日誕生日なんですけど」
全員がぎょっとした目でこちらを見る。
いやいやいやいやちゃうねん。なにその「誕生日なんだけど安くしてくれない?」みたいな交渉してるのコイツ嘘でしょヤバくねみたいな目。ちゃいますねんそういうシステムですねん。「はいはい」と僕の弁明をほどほどに流すと、田中先輩は赤い袋を取り出した。見ると、「これはプレゼントですよ」と主張したげなリボンがついている。えっ。思わず顔がほころぶ。
僕の誕生日は8月13日。お盆にジャストミートだ。だいたい夏休みの真ん中だしみんな帰省してるしで、僕は親族以外と誕生日を過ごしたことがなかった。まあだからこそ「ぼく東医体前日誕生日なんだぁ」と1か月以上前から周りに言い続けていたのだが。
「上野誕生日おめでとう」
「ありがとうございます!」
だから本当に嬉しかった。9月になってからの新学期初日に何かをもらったことはありがたいことにこれまで何回かあったが、まさしく誕生日に何かをもらうのは初めてだ。
期待と喜びで袋の中をまさぐると何やら布製のものが入っていた。これは、、、あ、赤白帽子?
「上野ガキだからちょうどいいかなって」
「そ、そんなぁ!」
「篠﨑魚本と一緒に買いに行ったんだけど」
覚えてろ二人。先輩ありがとうございます。
「あと、まだ入ってない?」
「え?あ、ほんとだ」
袋を振ると、中から缶バッチが二つ出てきた。見ると、それにはとても見やすい文字でこう書いてあった。
“女性初心者”
“金もない。彼女もいない。”
「ぴったりじゃない」
覚えてろ二人。先輩ありがとうございます。
「あとこれもあげる」
続いて先輩から渡されたのは、紙でできた箱に入った赤色のタンブラーだった。、、、あれ?
「えっと、、、これにはなんの仕掛けがあるんです?」
「普通の水筒だよ。八木と買いに行ったの」
「え、あ、ありがとうございます」
あまりにもちゃんとしたプレゼントをもらってしまったのでリアクションがうまくとれなかったが、とてもうれしかった。先輩ありがとうございます。覚えてろ二人。
「お誕生日おめでとうございまぁあす」
そうして今度は店員から巨大なドラえもんのぬいぐるみが運ばれてきた。
僕の21回目の誕生日は忘れがたい誕生日になったのだった。
『満身創痍』3年夏- うえの
2020/05/08 (Fri) 19:06:17
結局稽古がない日に療養し、稽古を1回休んで僕が戦線復帰を果たしたのは2日後のことだった。
解熱剤を飲みまくって寝まくってどうにか熱は平熱まで下げたものの、頭は冴えないままだった。とは言え東医体直前に主力(当社比)の自分が調子の悪いさまを見せるわけにもいかず、人前ではどうにか平生を装っていた。

そして僕をもうひとつ苦しめたのは当時の身体状況である。
6月下旬の稽古中、何の変哲もない基本技稽古の、普通の籠手打ちのときだった。田中先輩の籠手を受けた時、手を打たれただけのはずなのに視界が一瞬白く光り、耳元で何かが鳴らされたような音がしたと思ったら次の瞬間、右手に激痛が走った。どうにかその場は耐えて相手を交代し、続いて甲田の籠手を受けたのだが、竹刀の鍔に当たったはずの一打は丸太で手を潰されたかのような衝撃が走った。第二中手骨剥離骨折である。リハビリも含めると全治は2か月と言われた。東医体には間に合わない。このまま田中主将のラストスパートをただ眺めているだけで良いのだろうか。否、剣道でも普段においても先輩に恩があった僕は、それだけはしたくなかった。そして時を同じくして、僕の大好きな阪神タイガースの鳥谷選手が、顔面を骨折した次の試合にマスクを着けて強行出場し、その後も試合で活躍し続けていることに感動したことを思い出した。あの時、鳥谷選手も全治2か月と言われていたが、次の試合には何食わぬ顔で出場していた。鳥谷選手にできるなら、僕にもきっとできないはずがない。そう思った僕は、病院から帰ると自分でサポーターを作り翌日の稽古に参加した。以降、すべての稽古に出続けた。籠手打ちで遠慮をされたり、地稽古で出籠手を打たれなくなるのが嫌だったので、このことは主将以外には言わなかった。事実を知っていても僕の意図を汲んで遠慮をしなさそうな篠﨑だけに7月下旬あたりに言ったのだが、その頃には痛みのピークは過ぎていた。良い子はちゃんと休みましょう。整形外科領域では安静が大事です。説得力。

加えて、夏に入ってからの稽古で右肩の腱板を断裂してしまった。肩が水平以上上がってくれない。このことはさすがに隠すに隠せず、僕は素振りと切り返しの稽古を抜けさせてもらっていた(切り返しの最中は本数に応じて肩を使わなくても良い程度のかかり稽古をしていた)。
毎日痛み止めを飲みながら剣道を続け、湿布は一週間で一箱なくなり、寝返りをうって右が下になった拍子に目が覚めて以降眠れなくなったり、部活前に病院に行って注射を打ってもらったりする生活をしながら、ギリギリ剣道ができていた状態だった。
挙げ句の果てには高校時代の足底腱膜炎、筋膜炎まで再発し、かかとサポーターを二重にしても踏み込みごとに痛みが生じるため、むやみやたらに打って出ることができなくなってしまった。
野球部での連投が祟って損傷した右腕の靭帯も完治しておらず、サポーターは関節ごとに装着していた。
そこに加えてこの体調不良である。体が使えない分を感覚で補って剣道していた僕にとってさすがにこのときは苦しかった。良い子、というか正常な判断ができる人は休みましょう。
まぁ右腕が使い物にならなくなったことで右手打ちが矯正され、肩が上がらなくなったおかげで振りがコンパクトになって、踏み込めないおかげで無駄打ちが減ったので怪我の功名、なのだろうか。

そして体調が変わらぬまま迎えた翌日の稽古後、夏稽古恒例の水の掛け合いが行われた。運の悪いことに、その年の標的は僕だった。僕もこういうのは好きだし、むしろ普段なら積極的にやって暴れたい派だった。
だが、この時ばかりは自らの運を呪った。
その夜、熱は38.2度まで上がった。

翌日の田中主将最後の稽古はどうにも参加できず、解熱剤でむりやり熱を下げてなんとか平熱まで戻し、僕は東医体に向かったのである。宿に着いた瞬間に荷物も広げずベッドに伏した僕の意識は何かに引かれるようにして遠のいていった。
上野竜治、この日21歳の誕生日である。
『人には人の』3年夏- うえの
2020/05/07 (Thu) 20:03:05
初日からバリバリ稽古が行われる予定だったが、床が剣道仕様ではなくダンス仕様だったためにそこらじゅうに亀裂やひび割れが多く、とても裸足で何かをできる状態ではなかったので部員総出で床をチェックしてガムテープで亀裂を埋めていく作業が行われた。明日25校戦だっけ。ともあれ作業を終えた時にはもう夕ご飯まで1時間を切っていたので、この日の稽古は柔軟ストレッチのみとなった。

食事を終え風呂に入り、部屋でゴロゴロしているとダンスホ、、、剣道場に灯りがついていることに気が付いた。
「電気消し忘れですかね」
「なんか良磨と魚本が稽古しに行ってるらしいで」
へぇ。魚本ずいぶんとやる気だな。にしても、声くらいかけてくれればよかったのに。
そう思ったところで、あぁと気付く。

実は合宿出発前日、僕と魚本は2時間くらい電話で話をしたのだ。
出発直前の稽古で、ある部員が足が痛いからとかかり稽古の途中で抜けて、それに魚本が「俺も痛いのに頑張ってんだからお前も頑張れよ」と怒鳴ったところ「それは違くないですか」と言い返された件について、魚本が秋からチームを自分たちが率いていく上で竜治はどう思うと聞いてきたのだ。
この際速攻で言い返した後輩の態度もまぁ良くはないのだがそれはこの際置いておくとすると、僕としては、人はそれぞれ努力の器というものを持っているのではないかと話した。その器は人によって大きさが異なっていて例えば魚本は大きな器を持っているが大抵の人間はそれよりは小さな容量の器しかもっていない。魚本の器がなみなみといっぱいになる量の水があったとして、それと同じだけの水を他人の器にも同様に注ごうとすると、溢れてしまう。「いやもうここが俺にとっての限界なのになんでまだ注いでくるの?!」が毎回続いてしまうと、いつも溢れさせられる器の持ち主はだんだんと水を注がれることが億劫になっていく。やがて、器が満たされるまでの間すら溢れることを先に考えてしまうようになり、それが常になり、癖になる。だから個々人はそれぞれが持っている器がいっぱいになるまでの努力をし、「俺の限界はここまでですごめんなさい!」という判断を各々で為した上で、その人の器を少しずつ周りから大きくしていってあげるのが幹部の仕事であり、そうした回り方をしていくのが部活動なのではないか。と僕は彼との話の中でさせてもらった。あくまで僕個人の思想である。

声をかけられれば、恐らく僕はダンスホーr、、道場に行っただろう。だが、後述するがその時の僕の体の状態は極めて悪く、あまり余剰な稽古をするには適さない状態だったのだ。水を欲しているわりにひび割れていた僕の器に、彼は外から水を注ぐ機会を作りたくなかったのかもしれない。
赴こうかとそれでも一瞬思ったが、ありがたく僕は行かなかった。

翌朝、太陽がまだ山に隠れているくらいの時間に僕たちは起床し、5キロ(多分)くらいのランニングを全員でして、午前の稽古しにダンスホールに行くと、、、、、。
「暑くない?」
涼しかったのは初日だけだった。どうしても猛暑から逃げられない僕たちの稽古は、田中主将が部員の熱中症に細心の注意を払ったため離脱者こそ出なかったが、「この胴着、川に落としたの?」くらいには汗をかくことになった。特に午前の稽古に関しては、剣道人生で寒稽古を除けば初となる“基本技稽古が一切ない稽古”を経験した。だが単にきついだけというわけではもちろんなく、東医体を想定して“鏡側に並んでる人はなんとか一本取りに行くように、反対側は死守するようにして地稽古”なども行われた。勿論まぁきつかったことに変わりはないのだが。

そして三日目の午前中にそれは起きた。しつこいようだがここはダンスホールなので床が躍りやすいように摩擦を生みやすくなっているのだ。普段すり足稽古を日課としていた田中主将にとってこのことは大いに誤算で、すり足をした結果多くの部員の足の裏がお亡くなりになったのだ。「これで怪我して東医体出れませんとかなったら洒落にならないよな」田中主将は意を決し、以降の稽古は二日目が嘘のように調整メニューになったのだった。

その代わりというべくか、試合稽古は増えた。中でも篠﨑対中尾の試合は見物だった。
篠﨑は例に倣ってまた足を怪我し、中尾は足裏お亡くなり族の筆頭だった。二人とも歩くのがやっとだった。
「始め」
動かない。動かない。全然動かない。双方ともに開始線から微動だにせず、剣先でのやりとりを続けている。静けさの中に蝉の声と竹刀の切っ先がカチカチと触れ合う音だけが響き渡った。剣道を初めて6年になるが、まさかダンスホールで八段戦が見れるとは夢にも思わなかった。何事も続けていれば良いことがあるものである。
動か、、、いや、動けないの間違いだろうか。
その試合はというと、開始1分半で篠﨑がようやく一太刀目に選択した逆胴が決まり、勝敗が付いたのだった。

三日目は勝ち抜き戦を行い、田中良磨伝説の8人抜きが達成され、夜は花火をしたあと人狼をして、占い師を騙って村を全滅させて甲田に口もきいてもらえないほど嫌われて、最終日も試合をして合宿を終えたのだった。

帰宅途中駅のホームから一人で大きな虹を見た時は「合宿のフィナーレとしては最高だな」とひとり感慨に耽った。
そして帰宅して翌朝。38度の熱を出した。東医体5日前のことだった。
『新境地』3年夏- うえの
2020/05/06 (Wed) 20:17:20
「2度と主幹はやりたくない」を合言葉に25校戦を終え、篠﨑が突きで相手を文字通り吹っ飛ばしたこと以外は特にめぼしい話題のなかった春関が過ぎ、試験期間も無事終了し、夏休みにさしかかった僕らは今年もまた合宿地へと向かうバスに揺られていた。

「谷、今年の合宿地の地形は?」
「、、、盆地ではなさそう、ですね」
「今年は大丈夫だと思うよ、山中湖は避暑地で有名だし」
そういうと、田中先輩は宿を探して予約した魚本と何か確認を始めた。
どうやら今回の場所は魚本が探してくれたらしい。
同期もそういう仕事をするようになってきてるんだな。田中先輩が主将任期を満了して僕が主将になるのももうすぐか、、、。
窓の外に見える曇り空を映す湖と、アルプスを連想させる木造の小屋を風した宿の数々を見ながらそんなことを考えていた。

そしてバスはようやく目的地へと到着した。僕は昨年のトラウマから、不安半分いや不安八割でバスを降りた。すると――――
「おぉ、暑くない!」
暑くないといってもさすがに涼しいとまではいかなかったが、それでも東京で稽古するよりは遥かに快適な環境で剣道ができそうだ。これは期待できそうである。
バスを降り、雑木林の深い神社を右手に砂利道を登っていくとそこには今回の舞台となる宿がそびえ立っていた。隣接された体育館からは中学生くらいの合宿だろうか、高い声の1,2,3,4という声が聞こえてきた。

「すみません、予約してた田中ですが」
「はい田中様ですねお待ちしておりました」
宿は古めかしさこそあったものの、大浴場と中浴場に食堂がついていて、部屋も広くはないものの僕たちの人数にはおあつらえ向きなものが3部屋ほど用意された。いかにも合宿地といった雰囲気に少々心が躍る。そしてこの気候。今回の合宿は良いものになりそうだ。キツいものにもなりそうではあるが。
「それで、剣道場なんですが」
「はい?」
「あのだから、剣道場」
「当旅館に剣道場の備え付けはありませんが?」
あ、そのパターンってあるんだ。
「体育館は」
「別の団体が使用中ですが」
田中先輩と魚本が顔を見合わせる。
僕には、防具って今東京に送ったら東医体前日までには着くかな、なんて考えが浮かんでいた。
すると、宿主が口を開いた。
「一応似たようなものでしたら、、、こちらへどうぞ」
そして僕たちは離れに案内された。
広さとしては試合場一面ちょっとの大きさで、全面床張り。壁にもちゃんと鏡があって、高さもそこそこあった。なんだ申し分ないじゃ、、、ん?
気付けば、部員の何人かが頭上を見て笑みをこぼしていた。嫌な予感。僕もそれに倣うかのように恐る恐る頭上を見上げると、そこには剣道場には存在しえない異物――――ミラーボールがキラキラと輝いていた。そういえば壁の鏡、よく考えてみればやけに多いような、、、。そして、よく踏んでみれば抵抗感抜群でグリッドが効いた床。
そうか、間違いない。
「ダンスホールですね、ここ」
こうして僕たちの2度目の合宿は、気候に恵まれたダンスホールで行われたのであった。
Re: 『新境地』3年夏 - うえの
2020/05/06 (Wed) 20:47:57
回顧録16
『主幹苦労話』3年春- うえの
2020/05/05 (Tue) 19:31:43
時計の針は午後11時20分を回っていた。
「先輩、すみませんそろそろ終電が…」
谷が田中先輩に言った。谷に限らずとも、僕や中尾もそろそろ危うい状況だった。
「そうだよねぇ、じゃあもう続きは明日にしようか」
主将は明らかな疲労の色を浮かべて言った。
僕たち日大医は、僕が2年の春の時に行われた25校戦に(たぶん)手違いで呼ばれなかったのだが、秋に行ってみると「主幹をお願いしたくて、、、」と頼み込まれ春に主幹を引き受けることになってしまったのだ。
試合前日の昼前に道場に召集された僕たちは、田中先輩指揮の下でパンフレットの確認をしたり、模造紙に試合の組み合わせを書いたり、案内の紙を校内に貼って回ったり道場の片づけをしたりしていた。剣道場には試合場が一面しか作れないので、空手道場柔道場本館校舎を更衣室にし、体育館をメインアリーナとして使うことになっていた。
体育館は夕方まで他の部活が使っていた都合上、僕たちは体育館以外の整備、田中先輩は指示と書類作成や申請手続きに追われることとなった。
やがて日も傾いて体育館で活動していた部の活動が終了したので、僕たちは活動の拠点を体育館へと移した。
体育館の一面にモップをかけ、金具やへこんでいるところにガムテープを貼って、白いテープ(体育館の塗装の都合上養生テープを貼った上に白いテープを貼らなければならないという二度手間が地味に大変だった)でコートを作って、最終点検をして、終了。と、なるはずだったのだが、モップをかけていた時に、僕はそれを見つけてしまった。
「先輩先輩!釘出てますここ!」
「え」
おのれ日大医。建物の老朽化もここまで来たか。床からは板同士を張り付けるために用いられていたであろう釘が露見していた。
「これは、、、」
そこ自体は管財課を呼んでどうにかしてもらったものの、一か所がなっているのなら他にもあるかもしれない。部員全員で床を点検することになり、これが大いに時間を要した。
そうして遂に作業は終電まで続いたのである。
「じゃあ明日は6時にここで」
終電帰りの始発出勤だった。

そんなわけで部員のほとんどが十分な睡眠をとれずに試合に臨むことになった。
朝から誘導や作業があったのでアップすらほとんどできなかったのだが、試合はというと田中先輩が部員がするべき仕事を一身に請け負ってくれていたおかげで僕たちは仕事のことを考えず試合に集中することができた。また、「今日の指揮やオーダー決めは任す」と、先輩は僕にチームを託してくれたのだった。これが「俺がチームをまとめる側にもうなっていくんだ」と最初に感じた出来事だった。
25校戦では、僕たち日大医は今まで田中先輩を除けばチームで入る一本はせいぜい多くて3,4本といったチームだった。ましてや今日は篠﨑も私用でいない。どうなるのか、、、。そんな心配を抱えながらまとめ役を引き受けたのを覚えている。

結果、この日取った一本は中尾2本、谷4本、八木さん4本、魚本5本、上野3本と一回だけ出場した田中先輩の1本で合計19本の乱獲となった。魚本がミスター25校戦と(僕に勝手に)呼ばれるようになったのもこの頃である。
僕自身は2本勝ちこそなかったものの5試合に出場して1本勝ち3回、引き分け1回(、尚原に秒殺されたの1回)と初めて錬成会で勝ち越すことができた。
特筆すべきは八木さんだった。八木さんは副主将兼主務として田中先輩と二人三脚でチームを引っ張ってきていたのだが、大学始めということもあって試合では失礼ながら2本負けが目立っていた。そんな中でこの日は引き出籠手という高難易度な技を2回決めるなどして活躍したのだ。4月からの成長のブーストが半端ではなかった。
また、それまで日大医のオーダーでベースになっていた“先鋒上野、次鋒魚本”を、魚本と話し合って初めて逆の“先鋒魚本、次鋒上野”にしたのもこの日が初めてだった。
この配置転換によって、スピード勝負をしつつ強い相手にも粘れる先鋒魚本と、次鋒狩りの次鋒上野という上野主将時代に度々使われることになるオーダーの礎が築かれたのである。今思えば、この並びで挑んだ試合ではほぼ全てでリードか五分くらいの状況を作って後ろに回せていたように思う。

そんなチームは大いに盛り上がったかと言うと、昼休みには
「りゅーじ、20分後に起こして」
「いや俺も寝たいから谷起こして」
「谷さんもう寝てます」
「じゃあ中尾」
「僕はもう寝ました」
そんなわけで主幹の苦労を体感させられることになったのだった。まぁ個人的には幹部じゃない立場だったから文化祭準備みたいで楽しかったけどね。
Re: 『主幹苦労話』3年春 - うえの
2020/05/06 (Wed) 20:47:29
回顧録15
『空前絶後』3年春- うえの
2020/05/04 (Mon) 19:59:20
「へいへい姉ちゃんかわいいじゃねぇかぁ」
「俺たちと遊ぼうぜぇ」
「やめて、、、誰か助けてぇ!」
「待てぃ!」
この段階で日記を読んでくれてる人はおおよそ察しが付くだろうが、今年の勧誘も昨年と同じ作戦をとった。
さらに今年は、サンシャイン池崎に似ていると巷で噂され始めていた八木さんに池崎のコスプレをしてもらい、寝袋で全身を隠した状態で登場して敵のボスとして登場してもらうといったひねりを加えたり、演劇部と兼部していた花木の本格的な演技指導の下でそこそこ劇の稽古をちゃんとしたりとクオリティに関しては格段に上がったものをお送りできるようになったのではないかと思われる。
「なんだぁおめぇはぁ」
動画やプレゼンによる部活紹介の連続だった中で突然演劇部でもないのに寸劇が始まったものだから、一年生は大いにざわついていた。
「嫌がっているではないか、お前らお嬢さんから離れろ」
僕は木刀を回して構え、花木の前に立ち、中尾、魚本、寝袋で姿を隠した池崎もどきと対峙する。
そしてここで中尾が自ら考案したセリフを発する。
「モテようとして茶髪にして、大学デビュー気取ってんじゃねぇぞ!」
中尾くん、演技のセリフにしちゃあずいぶん辛辣でないかい?
「やっちまえぇ!」
魚本が言う。この一言を言うためだけに稽古中に何度も花木に「もっと通る声出してください!」「あーもう違います!」「はぁ、きったない声ですねえ!」と温和に怒られていた。
斬りかかってくる魚本を斬って、後ろから斬りかかってきた中尾に対しては小太刀で応戦。先ほどまで持っていた木刀が宙を舞うと「おお」と一年生からの声が聞こえた。中尾も倒し、僕は寝袋に告げた。
「残るはお前だけのようだな」
「、、、とうとう私の出番が来てしまったか」
そう言いながら池崎もどきは舞台の中央まで歩み寄ると、寝袋を脱ぎ捨てて叫んだ。

「いええええええええええええい!!!!!くぅぅうぜんっぜつごのおおおおおお!!!」

さすが関西人!完璧な間に完璧な動き!会場はこの日一番の爆笑に包まれた。
最初は引き受けるのちょっと嫌がってたのに、完璧な池崎をありがとうございました。
僕は八木さんへの感謝を心に浮かべつつ、自己紹介中の池崎もどきをぱさりと斬り捨てた。

そんなわけで部活紹介は大成功に終わり、1年生からは校内で記念撮影をせがまれる始末だった。勧誘にもちゃんと一年生が来てくれることになり、僕ら演者は終了後全員で銭湯に行って祝杯を挙げ、僕と田中先輩は池袋まで歩きつつ“視界に入ったコンビニにすべて立ち寄ってビールを買う”という、追いコン前日の伊香保旅行の反省が極めて活かされた企画をしたりもしたのだった。
こうして多くの1年生を迎え、剣道部はより一層にぎやかになっていった。なんてことはまるでない。

入部希望者
安孫子偉作
以上

安孫子偉作。彼は入学と同時に剣道部の門を叩いた看護部員だった。この時看護部員が誰一人在籍していなかったので、彼の入部によって看学剣道部=安孫子という方程式が成り立ったのである。
最初は「剣道部に経験者で看護の一年が来るらしい」という話を先に聞いた僕は、大いに心を躍らせたので、本人が道場に来た時に開口一番出た言葉は「男やないかい!」だった。
それはともかくとして
「なんでだ?あんなに勧誘人気だったのに」
「あの、先輩俺思うんですけど」
「ん?」
「劇の比率が大きすぎて、剣道部の紹介を忘れていたような、、、」
「あ」
こうして、変わり映えのしない顔ぶれに安孫子が足された僕たちの1年が始まったのである。

「安孫子偉作です」
チリチリで普通よりやや長いくらいの髪、眼鏡の奥に人懐っこそうな目を光らせながら、安孫子は自己紹介をした。
まあ1人しかいないとはいえど入部してくれた大事な一年生だ。これから
「下ネタが大好きです。よろしくお願いします」
、、、、。いま、僕らは一体何をよろしくされたんだ?
そんなわけで大型新人を迎えてなお部活は良磨キングダムだった。なおかつ唯一の新入部員が既に参段を持っていて高校時代もバリバリの剣道部でレギュラーだった安孫子とあって、“新入生が来たら最初は優しいメニューにするか”といったボーナスタイムもなく、僕たちは日々「次〇回!」と号令される切り返しの本数に怯え、「全員構えて!」という号令を渇望するすり足の稽古をひたすらにこなしていくのだった。

この頃、僕の剣道は第二次変化期を迎えていた。初期型が“何も考えずに打ちまくる”タイプ、2期が“頭を使いまくって戦略を練る”タイプ、そしてこの頃のが“無心”タイプであった。
2年生の頃に試しに試した戦略を、頭で考えずに体になじませて自然体で攻めるというタイプである。試合が終わった後には「あの打ちにはこういう意図があって」と説明できるが、試合中は頭を使わずに、体に染みついた戦略の数々を反射で繰り出す、というものだった。
結果的にこの戦法が僕にはハマり、この数ヵ月後主将を歴任してから僕の剣道は僕の中での全盛期を迎えるのだが、それはまた別のお話。ともあれ、1年生で考えなさ過ぎて失敗し、2年生で考えすぎて失敗したからこそ辿り着けたタイプだと思っている。
そしてその剣道を以てして初めて臨んだ対外戦が、3年生の春の25校戦である。

また、このあたりから試験前日でも関係なしに部活に出続ける田中先輩の背中を追って、僕の剣道熱はどんどん加熱されていった。これを書いている今思えば、この時先輩によって意識改革がされなければ僕はもうとっくに引退して、剣道がここまで生活の中で大きな割合を占めることもなかったかもしれない。だが、それもまた別のお話。

別のお話が多過ぎて何書いてんだか自分でもわけわかんなくなっちゃったので、その25校戦まで飛ばして参りたいと思います。
Re: 『空前絶後』3年春 - うえの
2020/05/06 (Wed) 20:46:50
回顧録14
『見ているものと見えてるものは別物』2年秋- うえの
2020/05/03 (Sun) 21:17:51
秋関ベスト16。
最低でも10年以上ぶりの快挙である。
東医体ベスト16。
あの時は埼玉医科との試合後全員で健闘を讃え合い、充実感と満足感と少しの喪失感がチームから滲み出ていた。

いま、ベスト16に輝いた自分たちはというと。悲嘆に暮れ、悔しさと屈辱がチームを渦巻いていた。同じベスト16。たった3ヶ月でこうも感覚が違うものなのだろうか。試合が終わった直後、面を外しながら主将は嗚咽を漏らしていた。先輩この試合にそんなに懸けてたのか、、、。
それを見て僕は自分が情けなくて仕方がなくなった。僕はこのチームで田中先輩の次の位置にいなければならないとずっと思っていた。2番手として、試合でも稽古でもチームを支えなければならない。そう思っていた。どんどん自分を責める言葉が頭に湧き出てきて止まらなかった。誰も口を開かない着替えの場で、誰も見ていないところに肘のサポーターを叩きつけてそれを眺めてみても、僕に旗が上がることはもうなかった。
「負けたのは僕のせいです。本当に申し訳ありませんでした」
ミーティングで僕は言った。
団体戦っていうのは、勝てば分け前5等分。負けても責任は5等分だよ。お前は悪くない。
高校時代僕の引退試合で負けた後輩が負けたことを謝罪してきて、そのとき僕はこう返した。結局、言われるのと言うのは違うんだなと思うしかなかった。先に書いた励ましの言葉は僕にとって嘘でも取り繕いでもない。本当に団体戦とはそういうものだと思っているのだ。僕がミーティングで言った言葉を吐いた人間がいれば、恐らくまたこういう言葉をかけただろう。同じベスト16でも、感じ方は違う。同じ言葉でも、感じ方は違う。見ているものは見えているものではない。そして、
「先鋒ってそういうポジションなんだと思います。来年に向けて僕も考えようと思います」
口を突いてでるのは謝罪の言葉だった。
「本当にすみませんでした」
結果的に、僕はこの試合を境に先鋒での公式戦出場から長く離れることになる。

構成上暗い幕切れとなってしまったが僕の2年生はこんな感じだった。
他にも、この年出場した医療系春関東医体秋関25校戦のすべてで埼玉医科大と対戦することになって部員全員が埼玉恐怖症になったり、夏はまた熱海に連れていってもらったり、追いコン旅行の前日に田中先輩と魚本と伊香保に行って、“追いコンで使う人狼のカードが見つかるまで視界に捉えたドンキにすべて立ち寄ってカードを探す”という企画をしながら伊香保から東京に向かったところ、翌朝の新幹線が8時なのに帰宅が朝4時になってしまったり、追いコンで蕎麦打ち体験をしたら出来上がったのが粉っぽくて四角形の何かでそれを食べたほぼ全員が「これは消しゴムだ」と言い放つ逸品が出来上がったり、髪を赤茶色の染めてみたり((注)現在は校則が変わったのでアウト)、基礎医の過去問を11年分解いて基礎医試験に臨んだのに、それまで過去問ゲーだった基礎医が突然ほぼすべて新問になったおかげで再試になって留年の危機と戦う羽目になったり、医療系大会で千葉に遠征した時に髪が極限まで伸びて大変なことになった篠﨑が他校の人に「これが東京のトレンドか」と言われたり、その医療系の個人戦で延長17分の死闘を展開して大会の進行と部カメラの残量を大いに妨害したりと色々なことがあったが、それはここでは割愛とする。
Re: 『見ているものと見えてるものは別物』2年秋 - うえの
2020/05/06 (Wed) 20:46:15
回顧録13
『悩める主将』2年秋- うえの
2020/05/02 (Sat) 18:50:07
「いやこれ、、、んん、、、、、、」
オーダー表に穴が開くのではないかというほど田中主将はオーダー表を見つめ、ボールペンを握っては置くを繰り返していた。
「これ、、、んんん、、、、」
その紙には先鋒から上野、谷、田中、篠﨑、魚本と書かれていた。
チームは無事決勝トーナメント進出を果たした。少なくとも過去10年以内の秋関では達成されなかった偉業である。新しいオーダーも東京歯科戦でハマり、僕たちは意気揚々と決勝トーナメント一回戦に臨んだ。なんてことはまるでない。東京歯科戦の直後に行われた宿敵埼玉医科戦では、田中先輩引き分け、他全員負けという苦しい結果に終わったのだ。決勝トーナメントともなれば、埼玉のような強いチームとも戦っていかなければならない。本当にこのオーダーが最適解なんだろうか。もっと良いオーダーは、、、。
時間の許す限り、主将は悩んでいた。


決勝トーナメント1回戦。
相手は北里大学。
整列の直前に、選手の名前が書かれたホワイトボードがバタンと翻る。日大医と書かれた短冊の向かって右側で5枚の短冊が揺れた。

日大医
上野
谷 
魚本
篠﨑
田中  

「これで行く」
日大医大将田中。田中主将はここで、粘り目的の大将魚本から、日大医の砦として相手の大将を迎え討つ、大将田中という戦略に舵を切ったのだった。

先程より見物人の多い体育館入り口付近で試合は始まった。整列をしていた10人が散り、まっさらな試合場に僕と相手の先鋒だけが残った。立ち上がり、気勢を上げると大きな歓声が小さく聴こえてきた。なんとしても勝ってチームの勝利に貢献しなければ。僕は剣道とパワプロのときしか使わない頭をフル回転させ、相手の癖、隙、間合いをひたすらに探り、自分が持ち合わせているどの戦略を当てはめることができるかを考える。
だが、残念ながらそうそううまくはいかないもので。
「籠手あり」
結局また思考が追い付かなくなり、足が止まり、不用意に前に出てしまった。こんがらがり始めた思考を一回リセットしようくらいの気持ちで打った、何の工夫もない面だった。
相手に掲げられた3本の赤い旗が、僕が本来刀で手首を切り落とされた時に噴き出すはずの血の色に見えた。
一度思考が追い付かなくなると、すべてが空回りしてしまう。もう自分がどうすれば良いのか、どう手足を動かせば良いのかまるで分らなくなる。
「胴あり」
上がったのは白旗3本。だが、違う。確かに一本は取れた。だが攻め勝って取った一本ではなく―――すなわち勝って打ったのではなく打って勝った状態だった。あんなに感触のない一本も初めてだった。そんな状態で勝てるはずもなく、また僕の足は動かなくなった。

日大医 ― 北里大
上野ド ―コメ山崎
谷   ― コ前沢
魚本メ ―  古賀
篠﨑  ―  廣瀬

谷も敗れた中、この日良いところがなかった魚本がここで底力を見せ北里優勢の雰囲気を押し返したのである。篠﨑も引き分けで、勝者数、得本数ともに1ずつ足りない中で大将戦になったのだった。

田中  ―  堀江

ここで田中先輩が2本勝ちすれば日大医の逆転勝利。
東医体から今日に至るまでそういう試合は全て日大医が制していた。
1本勝ちもしくは2-1の形でも代表戦。そうなれば望みは繋がる。いずれにせよ僕はやはり無責任に田中先輩を応援することしかできなかった。
それでも今までもこういう状況でチームは勝ってきた。今回もきっと、なんだかんだ大丈夫だろう。日大医はこういう展開に強い。
そして始まった大将戦の勝負は――――ものの30秒でついた。


田中  ―メド堀江
Re: 『悩める主将』2年秋 - うえの
2020/05/06 (Wed) 20:45:43
回顧録12