レモンサワーを流し込む。旨いなぁ。僕はバラエティ番組を見ながらソファに足を投げ出し、それを飲み干す。
僕には決めていることがある。それは“晩酌は本当に嬉しいことがあった日だけする”ということだ。
今までの人生でそれは5回ほどある。
主将に就任して初めての大会で慶應に勝った日、観戦しに行った試合で阪神タイガースが大勝利を収めた日、看護大会の応援に行って帰りに尾前といろんな話をした日、春関でベスト16になった日、彼女ができた日の5回である。そして今が6度目だった。やはり酒は楽しく飲むのが一番だ。
11月、秋関まで一週間前の日曜日のことであった。
東医体での試合を終え、秋関へと向かって稽古をしていた中、10月に看護大会と女子戦が行われた。僕は尾前が1年生の時に出場した女子戦以降、応援が一人の時もあったが毎回女子の試合の応援に駆け付けていた。
尾前たちの試合は凄い。もちろん結果も常々入賞レベルのものを叩きだしてくるので凄いのだが、彼女たちの凄みはそれに留まらない。応援する人間に勇気をくれるのだ。
例えば尾前は、団体戦で結果を要求された時には必ずその通りの働きをしてみせた。豪快なその試合は見る者の足を止めさせ、魅了する。プレッシャーがかかるほどに彼女は本領を発揮する。大事な試合の際には試合場に入る前に自陣の仲間を見て自らを鼓舞する。その困難に立ち向かい戦うさまがかっこいいのだ。
松山の剣道を一言で表すなら“我慢”だと僕は思う。彼女ほど溜めと我慢ができる選手を僕はあまり見たことがない。普段はおちゃらけいて地稽古で相手に一本取られるとその場で「あひゃひゃ」と笑い出すのだが、試合の際には打って変わって鋭い眼光で相手を引き出す。一年生ながら大将に抜擢され、次々と旗を自分に掲げさせるさまは見事だった。
武田は初心者なので技術面に関しては相手に劣る場合が多いのだが、彼女は人一倍負けず嫌いでそれに関しては相手に引けをとらない。あるときは武田が一本でも取られたら負けるという状況で3分間粘ってみせたこともあった。その様子は2年生の時自らを捨てて粘りに粘ってチームに勝利をもたらした魚本さながらだった。、、、魚本引き合いに出したら褒めてる感でないか。ごめん武田。
女子ではないが、看護大会では小島の試合もすごかった。前期は正直目立った活躍をしていなかった小島だが、夏あたりから「この部活大好き」と度々口にするようになって以降看護大会に向けて状態を上げていくと、一気に個人戦3位まで駆け上がってみせたのだ。看護男子という試合の機会に恵まれない状況下、親も見ている前で結果を出した彼の男意義は素晴らしかった。
総じて、彼女たちは互いに支え合いながらも各々が役割を全うし、どんな窮地にも立ち向かっていく、そんな光景を見ていると心の奥底が揺さぶられるような感覚に陥るのだ。
特に僕はそれを10月の看護大会で強く感じていた。
それは、当時の僕の剣道的な状況も相まっていたように思う。
若干話が逸れるがこの頃の僕はというと、前期の成績が小学校以来の学年順位3桁を記録し、危機感に火がついてQB(国家試験用の問題集)を1日200ページ進めてノートにまとめ、それを暗記するということをひたすらに行っていた。50日で全QBを1周させるために平均して夜中の3時まで勉強をして、朝の5時に起きて勉強をしていた。区切りが上手くつけられず、何でもない日に徹夜したこともあった。そんな中でも勿論部活は皆勤である。1週間の中で睡眠時間より剣道をやっている時間の方が長かったなんて週もあった。これはこれで楽しい生活ではあったが、絶対もうやりたくない。
話を戻すと、剣道的には主将を篠﨑に譲ったタイミングあたりで騙し騙しやっていた左手の痛みが限界に達し、無意識のうちに右手に頼った剣道になってしまい僕の全盛期は終了を告げた。
右手が出れば左手が浮き、腰が残る。通常の面では打ちが弱くなるので右手で回す面に頼らざるを得なくなり、得意だった出籠手も形が崩れ始め上手く決まらなくなった。悪いことばかりではなく、なぜか突きが得意技になってそこそこの成功率を持ち始めたり、林田命名の僕の必殺技“キモ面”の開発が次々進み、“日本キモ面形”はその10まで完成されることとなったりもしたのだが、それでも失ったものの方が大きく、毎回荒稼ぎしていた25校戦での一本の本数は激減、春関でも2回戦で負け、練習試合でも良い成績が残せなくなり、東医体では瞬間最大風速的な活躍はできたもののトータルではイマイチな結果となっていた。
結果はもちろんのこと、自分でも動きが悪くイメージと違う打ちをしていることを常々自覚していた。
最も大きな点は、自分が主将の頃まで持ち合わせていた“チームの主力としての自負”が消え失せたことだった。
今や稽古で左右を見渡せば林田、堀、小鳥、小島、尾前、松山、篠﨑、田中先輩、、、僕より強い人しかいない。僕が主力扱いされていた時代はもう終わったんだ、そう突きつけられているような気がしていた。
また、今まで酷使してきた身体の衰えも痛感していた。23歳の若さで何を言っているのかと自分でも思うが、今まで無理をしてきた代償は確実に体の各所に表れていた。左手の指に関してはもはや変形してしまい、握力を司る薬指は曲げきることも伸ばしきることもできなくなった。手足にサポーターを最低でも4ヶ所に常時装着しなければ剣道はできなくなっていた。120%の力を出してようやく他者と良い勝負になる僕にとっては致命的な状況である。
そして、いつしか思うように使えない体が先か精神的な問題が先か、僕は勝って打つ感覚を失っていった。たまに一本入ったとしても、納得できるものは少なかった。
みんな強いなぁ。俺も頑張らないとなぁ。でも今の俺、全然ダメだからなぁ。昔の俺だったらいい感じに勝負できたのかな。そんなわけないかなぁ。そもそも俺もともとそんなに実力なかったのかなぁ。
稽古や試合で後輩たちの活躍を頼もしく思う一方で、どんどん自分が弱くなっていっているような気がしていた。半年近くの間、日々の稽古ごとにその思いは大きくなっていくばかりだった。
いわば完全に自信を失っていたのである。もちろんそんなこと誰にも言わなかったし気付かれたくもなかったので表出させないようにしていたが、僕の中では確固たる変化だった。
そんな折に見たのが尾前たちの試合だった。彼女たちの試合を見ていると、こっちが応援しているのに不思議とこっちが応援されているような気がした。俺だってまだできる。そういう思いがどこからともなくふつふつと沸いてくるのを感じたのだ。
そしてその直後に迎えたのが秋の25校戦である。
25校戦当日、大学では文化祭が行われていたため篠﨑が参加できず、看護部員が午後からしか参加できないことになっていた。
男子は2チームに分けられ、僕は林田、小鳥、堀、小島(午後から)とチームを組むことになった。学年的には5,2,1,1,1である。だが
「先輩、次の相手のオーダー決めようと思うんですけど相手どこですか?」
「横市だよ」
「じゃあ僕カツカレーひとつ」
「いやココイチじゃないから!」
「僕はポークカレーがいいです」
「小鳥痩せろ。カレー屋さんじゃないから」
「オーダー入りまーす。1辛(先鋒)堀、2辛(次鋒)上野先輩、3辛(中堅)小島」
「ココイチ形式で発表するな」
そこに学年差など関係なかった。
そしてその雰囲気に押されてか、僕たちのチームは快進撃を続けた。得本数で言えば林田9本、堀11本、小鳥10本、小島6本(半日)を記録した。そして僕はというと、過去最多の12本を稼ぐことができた。尾前たちの試合を見て、体はともかく心だけは全盛期の頃のような気持ちで試合をすることができた。中には地稽古でも1本も取ったことがない他校の相手に2本勝ちできた試合もあった。
とにかく試合をするのが楽しくて仕方がなかった。早く次の試合がしたいと常々思った。この一年間遠ざかっていた感覚である。試合ごとにイメージと実際の動きのギャップに悲しくなって、気付けば相手も見えなくなり自分との戦いになってしまう、この一年間それの繰り返しだった。でも、本当に良かった。この気持ちはまだ死んでなかったんだ。俺だってまだできるんだ。試合後後輩たちと温泉に行った僕は帰宅するなり冷蔵庫を開き、半年以上前に購入しておいたレモンサワーを手に取ったのだった。
11月、秋関まで一週間前の日曜日のことであった。